「鎌倉時代には『一夫一婦制』が成立しているが、身分の高い男性は他に多くの側室を持った。しかし、源頼朝は武士の頂点であるにもかかわらず、側室は少ない。その理由は、北条政子の嫉妬深さが一因と言われている」
そう語るのは、ベストセラー『応仁の乱』の著者で、気鋭の研究者・呉座勇一氏(国際日本文化研究センター助教)だ。最新刊『日本中世への招待』で呉座氏は北条政子の嫉妬深さは、かなり強烈だったと明かしている。
「頼朝の御所に仕える女官で、大進局という女性がいた。頼朝は政子には内緒でこの女性に手を出し、文治2(1186)年2月に男の子が産まれた。これを知った政子は激怒した。この結果、本来なら行われる出産のお祝いの儀式はすべて省略されたという」
それでも政子の怒りは解けず、5年後、大進局は鎌倉から追放されてしまう。また、産まれた男児は翌年に上洛して出家し、仁和寺に入っている(後の貞暁)。『吾妻鏡』では、「御台所の御嫉妬甚だしき」などと書いてあるという。
さらに北条政子の嫉妬は過激さを増す。
「寿永元年(1182年)8月、政子は男児(後の頼家)を出産した。ところが、政子の妊娠・出産中、頼朝は密かに愛妾の亀の前を伏見広綱の屋敷に囲い、しばしば通っていたのだ。11月、北条時政の後妻(政子の継母)である牧の方が政子に次第を伝えてしまう。激高した政子は、牧宗親(牧の方の父)に命じて広綱の屋敷を破壊させた。広綱と亀の前は大多和義久の屋敷に逃げ込んだ。
これを知った頼朝は義久の屋敷を訪れ、牧宗親と伏見広綱を呼び出した。広綱に報告させた後、宗親に申し開きをさせた。しかし宗親は上手く弁明できなかった。怒った頼朝は宗親を以下のように叱責した。『政子を尊重するのは良い心がけだ。しかし今回のような件では、表向きは政子の命令に従いつつ、こっそり私に伝えるべきだろう。すぐに広綱の屋敷に行って破壊するとは何事だ』と。さらに頼朝は自ら宗親の髻(もとどり)を切ったという。髻を切られるのは、現代で言えば下半身露出に等しい恥辱であった。宗親は泣いて逃亡したという。
北条時政は頼朝の仕打ちに怒り、一族を連れて伊豆へ帰った。また政子の憤りが収まらなかったため、頼朝は広綱を遠江に配流した」