変化する仏教

 ゴータマは三五歳で真理を覚った。覚ったけれども、見たところはふつうの人間のままだった。そして、老人になって死んだ。仏(覚った人)となると、生死を超越するのではないのか。仏教では、人間を、二種類に分ける。覚っていない人(凡夫、ぼんぷ)/覚った人(仏)。覚っていない凡夫も、覚った仏も、人間としての寿命が尽きれば死んで終わり。存在しなくなる。輪廻などしない。ほぼ、唯物論なのである。

 仏は人なのか。人である。まず、人間でなければ、真理を覚ることができない。動物は知力が足りないから、真理を覚れない。神々や天人は、恵まれていて、苦悩がない。苦悩がなければ、真理を覚ろうとは思わない。

 そして、真理を覚ったあと、人間でなくなるわけではない。ゴータマをみればわかる。ゴータマは、ふつうの人間として一生を送った。後世、ゴータマが特別でないと気のすまない弟子たちが、ゴータマに尾ひれをつけ、超人的な存在にまつりあげた。それはゴータマの、あずかり知らないことである。

 ゴータマをめぐる尾ひれのひとつが、ジャータカ(前生譚)である。ゴータマは、並みの人びとより、はるかに高いレヴェルの覚りをえた、という話になった。どうやって? それは、ゴータマが過去世(かこぜ)で輪廻を繰り返しているあいだに、修行を積んだからだ。

 イノシシだったときは、大工を手伝った。ウサギだったときは、飢えたトラに喰われてやった。そうやって修行を積み、最後に人間に生まれて、仕上げをした。こんないかにもインド人向けの物語が、ジャータカだ。

 仏教はやがて、「ゴータマは、輪廻しつつ修行を積んだ」という説明を取り入れた。これを、歴劫成仏(りゃっこうじょうぶつ)という。成仏まで、そんな長い時間がかかるなら、ほかの修行者がゴータマの真似をしても、追いつけるはずがない。ゴータマとそれ以外の人びとは、もともと平等だった。でも、ゴータマは特別で、別格です、という話になった。最初の仏教とは、ずいぶん違う。

 インドで広まった小乗仏教や大乗仏教も、中国や日本に伝わった仏教も、こういう考え方でできているので、注意しよう。

(本原稿は『死の講義』からの抜粋です)