佐藤優氏絶賛!「よく生きるためには死を知ることが必要だ。」。「死」とは何か。死はかならず、生きている途中にやって来る。それなのに、死について考えることは「やり残した夏休みの宿題」みたいになっている。死が、自分のなかではっきりかたちになっていない。死に対して、態度をとれない。あやふやな生き方しかできない。私たちの多くは、そんなふうにして生きている。しかし、世界の大宗教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教はもちろん、ヒンドゥー教、仏教、儒教、神道など、それぞれの宗教は、人間は死んだらどうなるか、についてしっかりした考え方をもっている。
現代の知の達人であり、宗教社会学の第一人者である著者が、各宗教の「死」についての考え方を、鮮やかに説明する『死の講義』が9月29日に発刊された。コロナの時代の必読書である、本書の内容の一部を紹介します。連載のバックナンバーはこちらから。

キリスト教・イスラム教・ユダヤ教をゆるく理解する方法Photo: Adobe Stock

一神教フリースタイル

 一神教をゆるくとらえるとは、その本質を取り出し、枝葉にこだわらないことである。特定の教会や宗派にこだわらないで、一神教の本質に触れたいと思っているひとは大勢いるはずだ。その手がかりとなるように、それを取り出してみたい。

1.世界は、偶然ではない
 この世界の出来事のあるものは、必ず起こるはずのこと(必然)である。またあるものは、そうでなくてもよいこと(偶然)である。

 偶然を強調する仕掛けが、サイコロやルーレットである。みていると、なるほど、偶然だと思える。いっぽう、日蝕が予定どおりに起こったりすると、なるほど、世界は自然法則に従っているのだと思える。

 このわたしが、ここにこうしていることはどうか。ある意味、それは偶然である。A学校を卒業し、B会社に勤め、Cさんと結婚した。子どもも二人生まれた。そうしようと意思したことでもあるが、すべてが思い通りになるわけでもない。入試に失敗し、別な仕事をし、別な誰かと結婚していたら、別な人生になったはずだ。それなら、A学校を卒業しなかった、B会社に勤めなかった、Cさんと結婚しなかったわたしも、やはりわたしではないか。

 「この世界」を生きるわたしと別に、まだわたしがいる。そのような考え方を、「可能世界意味論」という。わたしはどの可能世界でも、わたしである。どの可能世界でも、言葉は意味が通じるはずだ。というふうに、考えていく。

 可能世界があるかも、という直観はわるくない。でも、この考えを徹底させると、「このわたし」がいなくなってしまうかもしれない。A学校を卒業しなかったわたし。2歳で歩けるようにならなかったわたし。いまの両親から生まれなかったわたし。イヌに生まれたわたし。…。

 結果、どう考えればよいのか。この世界にはたしかに、多くの偶然がまじっている。けれども、多くの必然もまじっている。偶然と必然が織りなす全体が、この世界である。「この世界は、大部分が必然で、残りが偶然である」。

 そこに、「このわたし」がいる。

 まず、この世界の必然の構造を理解しよう。科学の教える自然法則が助けになる。それに満足して、この世界の偶然に無頓着なタイプのひともいる。「残りの偶然」は無視すればよい。すると、この世界は必然だけになるので、「合理主義者」としてやって行ける。

 しかし合理主義者は、自分が「このわたし」であることを説明できない。自分が「このわたし」であることの核心には、偶然が居すわっているからである。すなわち、「自分が『このわたし』として存在することは、合理的に説明できない」。

 わたしが存在することは、偶然だ。そう考えるのは、ひとつの行き方である。それに対して、それは偶然でなく、ある意思の働きだ。そう考えるのは、もうひとつの行き方である。自分は、なにものかの意思によって、存在する。そのなにものかを、神とよぶ。一神教は、そのような行き方である。

 わたしが存在するのは、偶然だとも、なにものかの意思だとも、考えられる。この世界をどう観察しても、そのどちらでなければならない、と結論はできない。それはふたつの異なった「相」のように、この世界について成立する「見え方」である。