政治活動の目的は組織拡大と防衛のため
「党より学会が上」の不都合な真実
あくまで政治活動の底流にあるのは組織拡大や組織防衛だ。言論問題後の71年1月、外郭企業の社長を集めた「金剛会」の場で池田氏はこう種明かしをしている。
「公害問題とか社会問題を取り上げるのは折伏の為なんだよ」
また、同年7月、池田氏は同じ場でこんな本音を漏らしている。
「公明党と学会との関係は、絶対にこちらが上だ。世間は馬鹿だから、議員が偉いと思っている」
この間の人事・組織分離方針により党内では衆院議員1期生である竹入義勝氏や矢野絢也氏の力が強まり、遠心力が働いた。74年暮れに学会が共産党との間で秘密裏に結んだ協定(創共協定)は、イメージ戦略と党に対するけん制を兼ねた池田氏一流の権力掌握術だったとみることも可能だ。
結局、協定は竹入・矢野両氏らの反発で空文化したが、30年後に突如始まった両氏に対する批判キャンペーンは「党より学会が上」という不都合な真実を如実に物語っている。
池田氏の天下取り構想は93年8月に発足した細川非自民連立政権への公明党の参画で一部実現したわけだが、同年暮れごろから再び政教一致批判が巻き起こる。後に「四月会」と呼ばれることになる動きが亀井静香氏ら自民党の中から起きたのである。
池田氏の国会喚問まで取り沙汰されたこのバッシングに対し、学会側は青年部長だった谷川佳樹氏(現主任副会長)が中心となった緊急集会を開くなど防戦を強いられた。このときのトラウマが自民党との接近を生んだとの見方は少なくない。
94年12月、再び野党となった公明党は解党し新進党に合流。その後、紆余曲折の末、98年11月に再結成される。直後から学会内では「天鼓」なる怪文書がばらまかれ始め、翌年7月まで15回にもわたり浅見茂副会長への批判がなされた。
当時、実力者だった同氏は新進党路線(つまりは非自民路線)を主導していたとされるが、天鼓事件を機に失脚。そして99年10月、公明党は自民党、自由党との連立政権に参画し、今日まで続く自公連立路線が始まることになった。
この間、学会の教学面では大事件があった。90年に勃発した宗門との全面戦争がそれだ。91年11月、学会は宗門から破門され、完全にたもとを分かつ。これにより大石寺への登山など主たる宗教行事はなくなり、池田氏のカリスマ性のみが際立つ学会からは日蓮仏法さえ後退していった。代わりに組織の求心力を維持する最大の仕掛けとなったのが選挙活動だ。
「選挙への関心は高いが、政策への関心は低い」(元学会本部職員)――。今日、一般信者はこう評されることが多い。当初の政治目標や教学を失い、組織防衛の本能だけが染み付いた選挙マシン――。それが創価学会である。
(一部敬称略)
1968年愛知県生まれ。早稲田大学教育学部卒業。日刊工業新聞社を経て、98年より東洋経済新報社記者。2009年に同社を退社、現在はフリーランスのジャーナリストとして「週刊東洋経済」「文藝春秋」「FACTA」など各誌を中心に多数寄稿。著書に、新潮ドキュメント賞候補となった『凋落 木村剛と大島健伸』(東洋経済新報社)や『創価学会秘史』(講談社)などがある。