自動車業界は今、大激変の時代に入っている。トヨタ自動車の豊田章男社長が「自動車メーカーからモビリティカンパニーへのモデルチェンジ」を宣言しているように、100年に一度の変革を迫られているからだ。では、この30年で自動車業界はどう変化し、これからどう変貌するのか。歴史をさかのぼって、変遷を見ていこう。(ダイヤモンド・セレクト「息子・娘を入れたい会社2021」編集部)
*本稿は、現在発売中の紙媒体(雑誌)『息子・娘を入れたい会社2020』の特集「業界研究 自動車」を転載したものです。
90年代の危機から怒涛の成長へ
ハイブリッドカーが誕生
就活生の親世代が就職活動をしていた1980年代後半から90年代前半の自動車業界は、円高不況や米国との貿易摩擦、バブル崩壊によって厳しい経営状況にあった。自動車業界の動向に詳しいナカニシ自動車産業リサーチの中西孝樹代表アナリストは、「日本の自動車メーカーの時代は終わったといわれたほどで、トヨタ人気も今ほど高くなかった」と当時を振り返る。
しかし、中でもトヨタは95年に奥田碩社長(当時)が就任すると、グローバル化を推進。これまでの国内生産・輸出体制から海外での現地生産・販売へと切り替えることで、怒涛の成長を遂げる。
そして、海外における日本車全体の生産台数は、94年には400万台だったが、2005年には1000万台を突破している。
こうした時代に誕生したのが、ハイブリッドカーだ。97年に京都議定書が採択され、環境規制が強まる中で、トヨタは世界初のハイブリッドカー「プリウス」を開発し、他社に先行した。
また、05年に発生したハリケーン・カトリーヌは、燃費の良い日本車の需要が米国で高まるきっかけになった。石油・ガス施設の集積地が被害を受けたことで燃料価格が高騰。被害を受けた人々の車の買い替え需要も生まれ、日本車は米国でも人気となり、日本の自動車メーカーは黄金期を迎える。
当時、日本の自動車メーカーがプリウスのような低燃費で高品質な製品を作れた背景にあったのが、日本特有の「すり合わせ」によるモノづくりだ。自動車メーカーの工場には熟練した技術者がおり、多数の部品メーカーをグループ内に抱える垂直統合型(系列)の「あうんの呼吸」のモノづくりが、最大の強みになっていた。