韓国政府による2度の裏切りにも祖国への投資を諦めず
朴大統領の意向によって、周到な準備を重ねてきた石油化学事業参入の夢を絶たれてしまった重光。しかも、石油精製プラントよりもはるかに巨額の資金と技術を要するであろう、製鉄所の開設が喫緊の“宿題”となったのである。
そこで、重光は大統領経済首席秘書官の助言に従い、東京大学生産技術研究所で製鉄技術の研究をしていた在日同胞の金鐵佑(キム・チョルウ)博士と年間100万トン規模の総合製鉄所の事業化調査に着手した。重光は金博士の紹介で富士製鐵(後に八幡製鐵と合併して新日本製鐵<現・日本製鉄>)の永野重雄社長を訪ね、さらに川崎製鉄(現・JFEスチール)や八幡製鐵にも教えを請い、協力を求めた。重光はこう振り返る。
「八幡製鐵に相談に行ったら、『いや、個人じゃ無理でしょう』と言われた(笑)。それにしても政府の要請でもあるし、一年かけて日本の製鉄工場は全部見て回りましたね。欧米にも行った。その結果、100万トン規模の設備なら十分競争できるし、銀行からの融資も受けられそうだ、となった」(*3)
重光は製鉄業進出に向けて全精力を注いできたが、ゴールはもう目前に迫っていた。
「僕は1年半の間、日本内の富士製鐵の支援を受け、設計図を作りました。年間100万トンの生産規模で総投資額が1億ドルの計画でした。そのうち3000万ドルは私が出資し、残り7000万ドルは日本における借款などで建設することにしました」(*4)
マスコミも大々的に取り上げていた。67(昭和42)年7月26日の韓国紙・毎日経済新聞はこう報じた。
「屈指の在日韓国人実業家の重光武雄(ロッテ製菓財閥)が日本の三菱商事と提携し、粗鋼年産120万トン規模の総合製鉄工場の建設事業計画書を政府に提出した。26日、関係当局によると、重光武雄が提出した事業計画書では、第一段階は国内需要を考慮して60万トンの施設として進める」
ところが同じ日の東亜日報は、「張基榮(チャン・ギヨン)経済企画院長官は26日午前、第2次5カ年計画期間に建設される総合製鉄は国営にする(後略)」という政府方針を伝え、事態はまったく違う方向に進んでいた。
このすぐあとに重光は、金博士の東京大学の研究室に呼び出される。そこにいたのは、後に国営製鉄所の浦項(ポハン)製鉄(現・POSCO)の社長となる、国営鉱山会社「大韓(デハン)重石」社長の朴泰俊(パク・テジュン)だった。朴は「自分が総合製鉄所の企画および建設責任者に内定している」と告げ、重光はまたしても祖国に裏切られたことを悟ったのである。浦項製鉄は富士製鐵、八幡製鐵、日本鋼管(現・JFEエンジニアリング)3社の協力で73(昭和48)年に第1高炉を稼働させ、のちに年間550万トンを生産する世界屈指の鉄鋼大手に成長した。
青天の霹靂のような、製鉄業を国営とする政府の裏切りにあっても重光の韓国進出の意志は折れなかった。今度は製菓業での本格上陸を目指したのである。実は、政府の国営方針が明らかになる3カ月前の4月3日に、重光は韓国に「ロッテ製菓」を立ち上げていた。だが、前述したように、重光は当時、製鉄業の事業計画作成に全精力を傾けており、政府の裏切りで、仕方なく“本業”に注力し始めたといった方がいいかも知れない。この9年前の58(昭和33)年には韓国「ロッテ」が設立されていたが、実際に経営を行っていたのは重光の弟である次男と三男で、しかも兄弟の経営を巡る確執が裁判沙汰になるなど経営は迷走していた。そうした混迷状況を払拭すべく新会社を設立したはずが、はからずも重光が自身で本格進出して捲土重来を期さざるをえない結果になったと見ることもできる。
ロッテ製菓設立により、1年の半分は韓国、残り半分は日本で過ごすという、重光・辛格浩の40年にわたるシャトル経営がこの頃から徐々に始まっていく。そんな当時の様子が記録されている。
「すらりとした背丈(173センチ)、未だ黒い髪のかくしゃくとした辛氏は、大財閥の総帥らしくもなく、誰一人お供をつれずに小さな書類カバン一つだけで一人で帰国する。たいてい午後2時ごろ金浦空港に着くが、彼を出迎えるのは韓国ロッテの秘書室職員だけだ。天性仰々しいことが嫌いで、誰の前にも自分をあらわすのをいやがる習性のためだ」(*5)
また、後に「タイムマシーン経営」(*6)と呼ばれる、日本と韓国の経済発展のギャップを背景に、5つ星高級ホテルや日本式デパート、コンビニなどの、日本で先行していた事業を韓国にいち早く導入して成功させるビジネスモデルの片鱗もここでも見られた。ロッテ製菓はいきなり、バーブミント、クールミント、ジューシィミント、ペパーミント、オレンジボールガム、フーセンガムという、日本での発売時期の異なる6つの主力ヒット製品を一斉に発売し、さらにガム日本一の原動力となった「1000万円懸賞」の韓国版も翌年に展開し、韓国の消費者を驚かせた。シャトル経営とタイムマシーン経営により、ロッテは日韓の両輪でさらなる躍進を遂げていく。次回は再び舞台を日本に移し、重光による球団経営への進出と、ロッテの総合製菓メーカー化の軌跡をたどってみよう。
*3 『週刊ダイヤモンド』2004年9月11日号
*4 『月刊朝鮮』2001年1月号
*5 朝鮮日報経済部『韓国財閥25時』同友館、1985年
*6 海外で成功したビジネスモデルやサービスをいち早く日本で展開し、先行者利益を得る経営手法を、ソフトバンク創業者の孫正義氏が「タイムマシーン経営」と命名したとされる。韓国ロッテは「元祖・タイムマシーン経営」といえる。
<本文中敬称略>