元編集長が
「文春だけが目立つ今」に感じる不安

文春の流儀木俣正剛著『文春の流儀』(中央公論新社)

 私がなんとなく怖いと予感するのを、読者もわかっていただけたでしょうか。

 もちろん私がOBだから、単に親のような心配をしすぎだという考え方もあるでしょう。

 しかし、文春は、規模も小さく、財政基盤も弱い会社だと私は実感しています。その状態は、かつて以上に厳しいものです。専門的に訓練を受けている記者だって、そんなに多くはありません。

 文春だけが目立つ状況であってはならない。他のメディアにも本当に頑張ってもらわないと孤軍奮闘しているうちに事件が起き、そうなると、弱体化している出版社・文芸春秋にも大変な危機が訪れるのではないかと危惧します。

 私は書籍に書くことと、オンラインに書くことをかなり区別しています。本は書店にまで足を運び、お金を出して買う商品です。しかし、オンライン記事はいや応なしに目に入るものです。かつての週刊誌は、大人が読むもので、家では子供が読まないように隠してありました。今は誰にも届きます。標的になった人物にはその責任がありますから仕方がないにしても、周囲の何の罪もない家族が傷つき、予想外の行動をとったとき、雑誌は一気に世間から悪者にされてしまいます(そんな経験もしました)。

 だからこそ、常に雑誌は「強きをくじき弱きを助ける」という姿勢を見せていないといけませんし、記者の正義感は極力抑えて、この記事によって救われる被害者が誰なのか明示できるようにしなければなりません。

 そして、昨今は週刊誌が動画や音声までを配信しています。次に来るリアクションとして、パブリシティー権の侵害という新しい訴訟を芸能人や有名人に行使される可能性を考えなければなりません。有名人や芸能人はその名前自体がビジネスになっています。勝手にその名前を使えば著作権や肖像権の侵害になりますが、その名前のビジネス価値をおとしめる記事が出たとき、その真偽によっては名誉棄損ではなく、パブリシティー権の侵害という訴えが起こる可能性があります。

 たとえば、アンジャッシュ渡部建さん、東出昌大さんの記事は完璧に取材して、相手がぐうの音もでない記事だったと思います。しかし、1年以上、世の中にて商売もできないとなると、これはパブリシティー権の侵害だと考える弁護士がいるかもれません。まだ、雑誌相手にはこの問題での本格的な訴訟は行われていませんが、いったんこれが常とう手段となると、名誉棄損裁判のような損害賠償金額で済まなくなり桁が一つ違うといわれています。

 文春が好評な時代なのに、厳しいことばかりを言うようですが、私は文春が日本で最も気になる報道機関であり続けてほしいと思っています(最強でなくても、いつも何が書いてあるか気になる雑誌であることが大事だと思います)。後輩たち、あなた方はよくやっています。でも、より脇を締めて頑張ってください。