ホテル建設にのめり込んでいく重光

 品質第一を掲げてきた重光は、一流のものを好んだ。負けず嫌いで、なんでも自分の手で調べないと気が済まないこともあって、ロンドン、パリ、ローマ、ヴェネツィア、ウィーン、ニューヨーク、アトランタ、ラスベガス、ロサンゼルスなど、一流といわれるホテルを泊まり歩いた。

 ホテルの設計はもちろん、サービスを直接体験するためだった。チョコレート参入にあたって、最新の製造設備とトップクラスの製造技術者を探し求めて世界中を駆け回ったのと同じだった。今も昔も超高級ホテルの多くは、ホテルブランドを借りて、運営を委託するMC(マネジメント・コントラクト)方式と呼ばれる管理運営受託契約方式で経営されているが、重光はそれをすべて自前でやってしまおうと考えていたのである。重光宣浩は当時の兄の様子をこのように語る。

「世界一のホテルを作ろうという思いでいっぱいでした。スタッフを引き連れて世界中を旅しながらホテルを見て回り、どんなホテルを作ろうか考えていました。自分でデザインを考えたりしていたようで、部屋のデザイン画を作らせては自分たちでいろいろ決めていたようです。ドアノブまで直接かかわっていました。当時の韓国では建物はとりあえず大工に任せればいいんだという風潮で“インテリア”という単語すらなかった。挙句の果てには、韓国にはなかったインテリアの会社まで作ってしまいました」

 海外視察に飛び回り、帰国するたびに設計変更を申し入れる重光ののめり込みぶりに、当初、基本設計から施工・監理まで請け負っていた鹿島建設が途中で降りてしまい、それを戸田建設が引き継ぐという、建設業界では異例のゼネコン交替が起きるほどだった。

 日活のプロデューサーから縁あって71(昭和46)年にロッテに転職してきた松尾守人は、当時、経営企画部の課長を経て、本社総務課長として、重光のホテルへの取り組みを間近に見ていた。75(昭和50)年6月に着工したロッテホテルの“モデル”についてこう明かす。

「一般的には帝国ホテルをまねたといわれています。確かにどんな店を何階に出すかといったソフトの部分については帝国ホテルをモデルに研究しました。重光社長も帝国ホテルには足しげく通っていたようです。しかし、実は全体のイメージは、ホテルロッテの本館を見ていただくと分かりますが、京王プラザホテルです」

 71(昭和46)年に開業した47階建ての京王プラザホテルは当時、世界最高層のホテルだった。新宿副都心にそびえ立つ雄姿は、車で10分あまりの東京・新大久保にあった当時のロッテ本社から仰ぎ見る存在だった。

 この「秘園プロジェクト」には重光の弟である三男・春浩(チュンホ、後に「辛ラーメン」で知られる「農心」を創業)と四男・宣浩も加わっており、彼らの“配慮”が後に韓国のロッテ事業を大きく飛躍させるきっかけとなる。実は三男と四男は兄のためにこのような話をしていた。

「春浩兄と私は『(ロッテグループが)成功したのだから韓国で兄が自分の立場を示せるようなもの、歴史に残る大きな建物を造らないといけない』と、ホテルをはじめ、アーケード、百貨店などを含めた複合施設の建設計画を立てたのです」(重光宣浩)

 当初の計画では、ロッテホテルの付属建物は9階建ての「外国人観光客のためのショッピングセンター」だった。ところが、76(昭和51)年3月のソウル市告示では25階建てに変更されていた。重光自身も、後進的な韓国国内流通業界において最新施設と先進的な経営システムを備えた大型デパートを開店することが消費者、究極的には国家経済の発展に貢献できると確信していた。付属建物の地下1階から10階までをデパートとし、外国人観光客対象の免税事業を盛り込むなど、重光の構想案がそのまま具体化へと動き出した。これはロッテによる韓国国内流通産業への進出宣言でもあった。

 かくて78(昭和53)年12月22日にロッテホテルは竣工、一部開館した。73(昭和48)年10月以降のオイルショックの余波(資材高騰や中東への出稼ぎ増による人手不足)などと相まって、工期は32カ月が約1.5倍の49カ月、事業費は4800万ドルが約3倍の1億4500万ドルに膨れ上がった。翌79(昭和54)年3月10日に全館開業したホテルのオープニング・セレモニーで重光はこのように述べた。

「私は、一つの立派な芸術作品を祖国に残したいという切実な望みと、ソウルの心臓部に世界に誇れる名所を建設するという一念でロッテホテルの建設を主導してきました。我々の技術で建設し、我々の手で経営するロッテホテルが今後我が国民皆様が自慢できるものになり、韓国観光の基礎を固めるのに一役を果たしていくことを祈願しています」