不満を募らせる国民

 国民が蒙ったのは、経済的な損失だけではない。日露戦争の出征者は130万人。10年前の日清戦争が13万人だったので、その数の多さがわかる。しかも9万人(陸軍兵士の戦没率は8.7%)が亡くなり、44万人が傷を負ったり病気になったりしたのである。

 けれど国民は勝利を信じて重税に耐え、兵士や馬を戦場へ供給し、国債購入や献金に応じ、さらには戦地の兵士に物資や金銭を寄付し、兵士の留守家族を全体で支えてきた。

ロシアからの賠償金…政府と国民の温度差

 明治38年(1905)5月、日本海海戦の大勝利により、翌月、ロシア皇帝ニコライ二世は、アメリカのルーズベルト大統領の仲介を受け入れ、ポーツマスで講和交渉に入ることに同意した。海戦の敗北に加え、ロシア国内で革命運動が高揚していたことが、この決意を後押しした。

 日本の戦争目的は、ロシアの南下を防ぐことにあった。だから我が国の韓国における絶対的優越権をロシアに認めさせることが最低限の条件だった。日本にもう戦争継続の体力がないことはロシアも知っており、日本も賠償金が獲得できるとは考えていなかった。

 だが日本国民はそうは考えていない。マスコミの誇大報道により大勝したと信じていた。しかも同六月には戸水寛人ら7博士らが、安易な講和を否定して戦争の継続を叫び、「もし講和するなら、土地の割譲に加えて賠償金を三十億円獲得しろ」と無茶な講和条件を新聞紙上に掲載して国民をあおった。

 この時期の新聞は、国民の識字率の上昇にくわえ、戦争のお陰で各紙とも急激に部数を伸ばしており、国民に大きな影響を持つようになった。しかも戦勝の誇大ニュースを載せると部数が増えるものだから、毎回ロシア軍に大勝しているように書きたてたのだ。まだメディアリテラシーが育っていなかったため、庶民は記事を真に受け有頂天になっていた。

日比谷焼打ち事件の勃発

 しかし、明治38年(1905)8月10日からポーツマスで始まった講和交渉は、結果的に「賠償金の獲得は断念し、樺太の南半分を確保」という内容で妥結したのである。

 講和内容が明らかになると、新聞は一斉に日本の全権であった外相・小村寿太郎や桂太郎内閣を非難した。各新聞で講和内容を知った国民は、口々に政府を罵り、「首相を殺す」といった物騒な投書も相次ぎ、日本中が不穏の空気に包まれ始めた。