こうした中、講和問題同志連合会が講和条約反対の国民大会を企画した。この会は、戦争こうした中、講和問題同志連合会が講和条約反対の国民大会を企画した。この会は、戦争継続を主張する対露同志会が講和に反対する諸派を集め、かつて自由民権運動のリーダーで、衆議院議長だった河野広中を奉じてつくった組織である。講和問題同志連合会は9月5日を期して大規模な講和反対集会を日比谷公園で開くと、各新聞を通じて大々的に報道させ、大量のビラを撒いた。

 警視庁は、集会を断固開かせまいとして、日比谷公園の諸門を丸太柵などで塞ぎ、約400名の警察官を配置して中へ入れないようにした。しかし公園の周囲には続々と人が集まり、この封鎖を知って激昂しはじめた。

 というのも、日比谷公園ではたびたび大衆が集まる戦争イベントがおこなわれていたにもかかわらず今回、警察によって封鎖されたわけだ。しかも警察は当時、威張り散らしていたので、人びとから嫌われていた。このため、激昂した大衆の一部が警察官の制止を振り切って、群衆が公園に乱入したのである。日比谷焼打ち事件の始まりだ

警察を襲撃したのに、なぜ軍との衝突は避けたのか?

 参加した大衆の数については諸説あり、数千から8万人まで幅広い。公園で気勢を上げた群衆だが、やがてその一部は、弔旗をかかげながら公園から出て二重橋前広場へ移動、そこで君が代を歌いはじめた。このとき警官隊が強引に止めに入ったことで、激しい乱闘が始まり、流血の惨事となった。

 この頃から大会に参加していない者たちが騒動に加わりはじめたとされる。その多くは職人や車夫などの下層民だった。

 その後、群衆は数を増やしつつ、いくつかに分かれながら大通りを練り歩き、うち一団が政府寄りの国民新聞社を襲撃しはじめた。さらに別の一隊は、なんと警察を管轄する内務大臣官邸を包囲したのだ。しかも次々と石を投げつけ、ついには邸内に乱入、火を放ったのである。

 ここにおいて、警備責任者の警視庁第一部長の松井茂は、警察官の抜刀を許可した。だが、これが群衆の怒りに火をつけ、警察署や交番二百箇所が次々と襲撃されていったのである。翌日には市電十一台が焼き打ちにあい、あまりの参加人数の多さに、ついに政府は戒厳令を発令した。こうして軍隊が出動、ようやく騒動は鎮静化したのだった。