製菓業日本一となったロッテを凌駕する韓国ロッテ

 1983(昭和58)年1月、日本のロッテはついに業界トップになった。冒頭で述べたとおり、70年代後半から日本の総合菓子メーカーはロッテ、明治、森永の3強がしのぎを削る状況で、ロッテは株式非公開で秘密主義を貫いていたが、製菓業日本一の座が目前にあるのは、業界では周知の事実だった。

 しかも、翌84年(昭和59)年3月、江崎グリコの社長が自宅から誘拐され、身代金を要求されたことから始まる「グリコ・森永事件」は、ロッテのライバルメーカーを混乱に巻き込んだ。幸い明治とロッテは直接の被害は確認されていないものの、模倣犯と裏取引をしたという風説が流布される事態に陥った。だが結果的には、強力なライバルが失速することで、業界はロッテの独走態勢になっていった。

 これ以降、日本のロッテの売上高は製菓業界トップを保っており、88(昭和63)年には2500億円にまで達していた。日本のロッテでは主要会社はすべて重光が代表取締役社長を務めており、最後まで非上場のまま通し、代表権を持つ最高経営責任者として、自らの立場を鮮明に打ち出していた。トップ企業となってからも、絶対的なカリスマとしてワンマン経営を貫き、「重光武雄商店」そのものだった。しかし、製菓業に並ぶような柱となる事業は日本では育っていなかった。

 無論、ロッテが多角化に手をこまねいていたというわけではない。例えば72(昭和47)年には「ロッテリア」を設立、外食業界への参入を果たしている。これと前後して、68(昭和43)年に無料コミュニティ・ペーパー発行会社を設立したり(2008〈平成20〉年発行停止)、70(昭和45)年に結婚式場やボウリング場などの総合レジャーセンター「ロッテプラザ」を直営で開設している。71(昭和46)年設立のロッテ電子工業は、のちに携帯用使い捨てカイロ「ホカロン」を大ヒットさせた。しかし、「ロッテリア」にせよ、「ホカロン」にせよ、製菓業に続く2本目の事業の柱になるにはほど遠いというのが実情だった。

 一方、韓国のロッテグループの同時期の売上高は2兆3億ウォン、当時の為替レートで換算すると3700億円を超えていた。すでに規模的には韓国が日本を上回っていた。ちなみに当期純利益は732億ウォン(約136億円)だった。

 この88(昭和63)年は「88(パルパル)」と呼ばれたソウル五輪大会の開催年である。繰り返しになるが、この9年前の79(昭和54)年に重光はロッテホテルとロッテ百貨店を開業し、韓国のロッテは観光事業と流通事業を同時に推進する「観光流通」を擁する先進企業グループに姿を変えた。そのために重光は総事業費1億4500万ドル(当時のレートで約530億円)を投じた。これは70(昭和45)年完工の京釜(キョンブ)高速鉄道の総工費約1億900万ドルを上回る、つまり当時の国家プロジェクト以上の資金を一企業が投じたのである。そして、ソウル五輪に合わせて開業した「ロッテワールド」は用地代を除いた建設費用だけで6500億ウォン(当時のレートで約1200億円)と、さらに2倍以上である。しかもこの間、78(昭和53)年にはゼネコン「平和(ピョンワ)建設」(現・ロッテ建設)を買収し、翌79(昭和54)年には石油化学メーカー「湖南(ホナム)石油化学」(現・ロッテケミカル)の株式を取得している。(『ロッテを創った男 重光武雄論』より)。

 こうした巨額の投資が、ソウル五輪による景気拡大と、さらには、後に「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる韓国の驚異的な経済成長の下で回収期を迎えることになるのである。90年代のバブル崩壊から「失われた20年」へと停滞期を迎える日本経済と、朝鮮戦争で世界最貧国に転落しながら、戦後復興で先進国を目指して急成長を遂げる韓国経済の勢いの差は、そのまま日韓のロッテグループの“格差”となって表れることになる。