インド市場の進出で大成功の裏に
政府と裁判で闘争する苦難も

 鈴木修会長の経営者としての功績は枚挙にいとまがない。1978年の社長就任時の売り上げは約3200億円と弱小メーカーの域を出なかったが、その手腕によって現在では3兆円規模のグローバル企業に飛躍した。独自の鈴木修流経営により、激動の自動車業界を勝ち抜いてきたスズキの“中興の祖”であることは、誰しも認めるところだ。

 だが、本人の弁は「いろいろな失敗をしたから、成功したんだ」。多くの失敗を重ねたことが、それを打ち消すような成功につながったのだという。辛い自己採点は、むしろ常に挑戦を続けてきた証しなのだろう。

 失敗から学んでチャレンジする。それこそが、鈴木修流経営の真髄だ。実際、鈴木修会長の成功の裏には、数々の苦難が立ちはだかってきた。

 その代表例が、世界戦略と企業提携だろう。

 スズキは世界戦略として、1983年にインドで政府との合弁企業を立ち上げたほか、92年には当時の東欧のハンガリーに日系自動車メーカーとして初めて進出し、欧州戦略基盤の構築などに努めてきた。

 特にインドは、中国よりも将来性が高いとされる有望市場であり、現在では約50%ものシェアを誇るなど確固たる地位を確立している。インド、ハンガリーなど、当時どの企業も進出していなかった地域に着目するのは、いかにも鈴木修流経営という印象だ。

 だが、インドでの成功は「どこか(の地域)で一番になる」という鈴木修会長の「勘ピューター」経営の先見の明と言われるが、本人は「勘ピューターはモノをいったが、出会いとツキがあり運が良かったのだ」と述懐する。

鈴木修会長と佃義夫鈴木修会長(左)と筆者。修会長が社長になって以来、筆者は数多くのインタビューを重ねてきた