通貨危機襲来で上位30財閥の半分以上が消える

 1996(平成8)年10月25日、ついに韓国は「先進国クラブ」と呼ばれる経済協力開発機構(OECD)に加盟した。思い起こせば、朝鮮戦争(50〈昭和25〉~53〈昭和28〉年)で国土が焦土と化して世界最貧国となった50年代から、1961(昭和36)年の朴大統領による「5・16軍事クーデター」による開発独裁(経済発展優先のため国民の政治参加などを制限する独裁体制)、そしてソウル五輪を経た「漢江の奇跡」により、韓国はわずか40年余りで先進国に仲間入りするほどの急激な経済成長を遂げてきたのである。

 ところが、その発展の内実が極めて脆弱なものだったことが、ちょうど1年後に起きるアジア通貨危機で露呈する。

 97(平成9)年、新年早々に危機の予兆があった。当時、財閥ランキング14位(95<平成7>年時点)だった韓宝(ハンボ)グループ傘下の韓宝鉄鋼(現・現代製鉄)が1月23日に不渡りを出し、日本の会社更生法の適用に当たる「法定管理」を裁判所に申請した。

 そもそも韓国の公正取引委員会は財閥への経済集中排除のため、86(昭和61)年から資産額基準で上位50位まで、93(平成5)年からは30位までの企業グループを「大規模企業集団」に指定し、様々な規制を加えてきた。ところが、そうした強大な力を持つはずの財閥がバタバタと倒れ出したのである。

 3月20日には同じくランキング26位で特殊鋼製造の三美(サンミ)が倒産する。さらに食品の大農(デノン・96<平成8>年ランキングで34位)やヘテ(同19位)、焼酎で有名な真露(ジンロ・同27位・現・ハイト眞露)と財閥が次々と経営破綻していく。また、下着など衣料品のサンバンウル、精密機器のテイルといった中堅財閥も不渡りを出して法定管理下に入っていった。韓国4大重工の一つ、双竜(サンヨン)重工業グループ(同6位)も解体され、ついに10月22日、大手自動車メーカーである起亜(キア)自動車(同7位)が法定管理を申請したことで、韓国内は経済パニックともいうべき状況となった。

 そして、企業の経営不振というレベルを超えて、韓国の国家としての信用が問われる事態にいたる。米ムーディーズが「A1」だった韓国の国家(長期国債)格付けを12月21日には投資不適格を意味する 「Ba1」にまで引き下げ、7月にタイから始まったアジア通貨危機が韓国にも波及した。

 この間、株式市場は暴落を繰り返し、対ドルレートが初めて1000ウォンを突破するなどウォン安が進む。外資が一斉に引き揚げ、韓国中央銀行の外貨準備高不足が明らかになる。11月21日に韓国政府が国際通貨基金(IMF)に資金支援を求め、12月3日覚書に署名したことで、韓国が実質的にIMFの管理下に置かれてしまう。危機の最中に行われた大統領選では金大中(キム・デジュン)が勝利、翌98(平成10)年2月に金泳三(キム・ヨンサム)に代わり就任した。

 この後、数年に及ぶ韓国経済再建の過程で、財閥ランク1位だった現代(ヒョンデ)もグループの再構築を余儀なくされ、主に兄弟によって分割された。国内最大の自動車メーカーとなった現代―起亜自動車グループと、現代重工業、現代百貨店、現代海上火災保険の2グループへの分割といった具合だ。ランク2位の大宇(デウ)も、大宇自動車が主に米GM傘下となるなど解体されてしまった。

 結局、上位30財閥のうち17財閥が解体され、町には失業者が溢れ、韓国人はIMF管理で経済の国家主権を失ったと嘆き、日本による植民地化に続く「第2の国恥」と呼んだのである。IMFによる荒療治で韓国経済の国際競争力は高まり、サムスン電子に代表されるグローバル化する企業が登場する一方で、容赦ないリストラが生み出した不安定な雇用や格差問題など、現在の韓国が抱える問題の多くはこの時に生じたと指摘する声も少なくない。