どの子も違う 才能を伸ばす子育て 潰す子育て中邑賢龍氏の近著『どの子も違う 才能を伸ばす子育て 潰す子育て』(中公新書ラクレ)

 知能検査は本来、通常の学習についていけないような、知的な発達について遅れのある子どもを見出し、彼らに適切な教育を行うためのものとして開発されました。

 しかし、知能検査について詳しくない人ほど、そこで測定されてはじき出されたIQなどが、頭の良し悪しを測るもののように認識し、主張しがちです。確かにIQが高く出た人は、学校の成績も優秀である傾向がありますが、それは学校で学んで問われることと、知能検査が問うことが似ているからに過ぎません。

 最近、「優秀な大学を出ても仕事はできない」といった話をよく聞くようになりました。それは、社会の変化とともに、求められる仕事の内容が変わり、上司に指示された仕事を早く、正確に処理することだけが求められる時代が終わりつつあることの証左だと思います。しかし学校は相変わらず「早く正確に」できる人を養成する機関になっていて、知能検査も、そんな人ほど数値が高く出るようになっている。

 逆に、知能検査などで「処理速度が遅い」と診断されようと、実際の動作は機敏で、処理速度も決して遅いように感じられない人もいます。それはWISC -IVなどにおいて、符号や記号探し、もしくは絵の抹消といった下位検査の成績から算出される「処理速度」という項目が、あくまで視覚運動機能の速度を測るようなものになっているからです。

 つまり、私たちが想像する日常生活における行動の処理速度と、知能検査がはじき出す処理速度では、意味が異なっていると言った方が正しい。

 米国の精神科医、ウォルター・フリーマンは「知能検査で測るものを知能とする」と述べました。つまり、誰かが任意に設定した概念、そのどこに位置付けられるかを求めたものが知能なのであり、厳密なルールを作って、その枠の中で検査するからこそ、得点を比較できるわけです。これは同時に、知能という存在そのものが明確にあるわけではなく、だからこそ、その内容の妥当性も検証できないとも言えるでしょう。

過去の幻想を引きずる
日本の教育

 これからの社会では、目の前に広がる現実の状況を把握し、課題解決ができる人が求められます。そして、そうした場面で必要とされる創造性や実行力は、今の知能検査にはあまり反映されていません。

 学術の世界でも、学歴至上の時代は終わり、どこの大学を出たかということより、誰から何を学び、実際に何ができるかが評価される時代に移りつつあります。それなのに、日本の教育は過去の幻想を引きずっているためか、世界各国に追い越されつつあり、大学の国際ランキング低下を招いています。

 でもそれも大学だけが悪いのではなく、時代に対応できていない意識がそうさせていると言った方が正しく、私たちは知能という軸に頼って人を評価するような次元から、急いで先に進まなければならないのです。