早川種三という人を知っているだろうか?いや、覚えているだろうか?と言った方が適切かもしれない。
「再建の神様」と呼ばれ、多くの企業再建に尽力した人だ。高度成長期に倒産した佐藤造機や興人の再建で有名になったが、興人の倒産が1974年、今から約40年も前に活躍した人だから、今や話題にもならない。
しかし、最近、JALの破綻から再上場で京セラの稲盛和夫氏が活躍したり、シャープの経営悪化が話題になるなど、日本企業の経営問題が噴出しており、もう一度、早川種三のことを思いだしてもいいだろう。
これも広く考えれば「古典」だということで了解してもらいたい。
慶応を10年かかって卒業
彼のプロフィールを簡単に紹介しよう。
彼は、明治30年に宮城県仙台市に生まれた。父親は明治政府の土木技官から身を起こした企業家で、仙台市長を無給で務めるなどした篤志家だった。
大正13年に慶応大学を10年もかかって卒業する。この間、茶屋遊びで、放蕩三昧。父親から譲ってもらった、現在では数億円という財産を蕩尽してしまう。また登山に興味を持ち、日本の登山家の草分け的な存在にもなる。
卒業しても就職先が無く、登山の能力を生かして「紀屋」というペンキ屋を開業する。折からのビル建設ブームと放蕩や登山で培った人脈を生かし、丸の内界隈のビルの塗装を請け負い、事業は順調に推移する。
ところが好事魔多し。主要販売先であった東京建鉄の業績が悪化し、売掛金が焦げ付きそうになる。
「あんたが経営して建て直してくれ」と東京建鉄から頼まれてしまい、それ以降、再建屋としての人生が始まる。
これが昭和5年のことだ。