高碕達之助 東洋製罐会長・社長
 海洋国の日本だが、明治期の殖産興業時代に重点が置かれた重工業や製糸・紡績業に比べると、水産業の振興は出遅れた。明治政府に工部省が置かれたのは1870年だが、水産行政については77年に内務省勧農局に水産掛が設置されたのが始まりで、81年に農商務省が新設されてようやく水産課に格上げされ、85年に水産局に昇格した。その後、水産業に携わる人材育成を目的に大日本水産会水産伝習所(現東京海洋大学)が88年に設立される。

 高碕達之助(1885年2月7日~1964年2月24日)は水産講習所(水産伝習所の後身)を1906年に卒業。1学年上に日本漁網船具(現ニチモウ)を設立した林田甚八と岩本千代馬、1学年下には日本水産の設立に尽力した国司浩助や、キユーピー創業者の中島董一郎らがいる。

 高碕は缶詰製造会社の技師として、28歳でメキシコに渡り、水産工場の建設や缶詰製造に従事する。メキシコで高碕はなんと米国からスパイ嫌疑をかけられるのだが、このとき身元保証人として助けてくれたのが、親交のあった魚類学者でスタンフォード大学総長を務めていたデービッド・スター・ジョルダン。さらにこのとき、ジョルダンからスタンフォード大出身で鉱山技師だったハーバート・フーバーを紹介され、交流を持つようになる。後にフーバーは米国大統領に就任する。今回紹介する記事の中で、高碕がフーバーの言葉を引用する箇所があるが、背景にはそんな経緯がある。

 帰国後の17年、高碕は東洋製罐を設立。38年には缶詰技術者の養成と缶詰技術の研究を目的に、東洋罐詰専修学校(現東洋食品工業短期大学)を創設している。実業家として成功を収めると、42年には鮎川義介の後継として満州重工業の総裁にも就く。戦後は電源開発初代総裁や鳩山一郎内閣の経済企画庁長官などを歴任。衆議院議員として当選4回、岸信介内閣で通商産業大臣も務めた。

 日中国交正常化以前の62年には、日本の民間代表として中国を訪問し、日中総合貿易(LT貿易)に関する覚書に調印した。LTとは中国側の代表である廖承志(Liao Chengzhi)と高碕の頭文字を取った名称で、これを機に両国間の貿易規模は一気に拡大。日本経済の発展に幅広く貢献した人物といえる。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

「価格と質と時」を考える
それが事業経営の不変の原則

週刊ダイヤモンド1963年9月10日号1963年9月10日号より

 事業経営というものは、時と場合によって、いろいろと方法が変わってくるものだが、やはり、その中には、千古不変の原則というものがある。

 それは、いかにして、安く、いいものを、消費者の希望する時期に供給するかということだ。

 つまり、価格と質と時とを考えることが、いつの時代でも、動かすべからざる事業経営の原則である。

 しかし、このうち、一番大切なのは、消費者の情勢をよく判断するということだ。

 消費者の情勢は、刻々と変化していくものである。それは、今日の言葉でいえば、マーケティングということだ。

 このマーケティングについて、不断の努力をする必要がある。

 これが、ちょっとでも遅れると事業というものはうまくいかなくなる。

 ヘンリー・フォードという大事業家が、次のようなことを言っている。

「事業経営者の資格というものは自分の作った製品の販売について、いわゆるマーケティングを、よく把握するか、否かで決まる。

 事業というものは、ちょうど、一つのノミ(鑿)のようなものである。