交通営団とは一体、何だったのか。交通営団が設立される以前、東京の地下鉄は民営会社が経営していた。戦前、東京で開業していた地下鉄は現在の銀座線(という路線名は1953年になって制定されたものだ)のみ。わずか14.3キロの路線を、浅草~新橋間は東京地下鉄道、新橋~渋谷間は東京高速鉄道という2社で運営していた。

 当時、東京の地下鉄整備計画は銀座線の他に4路線(後の丸ノ内線、都営浅草線、日比谷線、東西線の原型となる路線)が定められていた。東京地下鉄道は現在の都営浅草線のルートに近似した新橋から品川、五反田方面への延伸、東京高速鉄道は現在の丸ノ内線のルートをほぼなぞるように赤坂見附から新宿方面への延伸を目指していたが、資金不足により計画は遅々として進まなかった。地下鉄の建設には莫大な費用を要するが、開業当初は必ずしも利用者は多くなく、経営が厳しかったからだ。

地下鉄の整備に国が関与した
戦時中ならではの事情

 この頃、他の鉄道事業者も経営に苦しんでいた。昭和初頭から続く長い不況の中で利用は低迷。さらにバスの普及により競争が激化した一方で、新たな路線の開業により鉄道同士の利用者の奪い合いも起こっていた。そこで鉄道事業者を救済すべく、東京近郊の交通網を統合して一元化する「交通調整」の必要性が叫ばれたのである。

 この構想が実現していれば、東京圏の全ての電車とバスを運営する巨大交通事業者が誕生していたかもしれない。だが、これは決して突飛な発想ではなく、同じ頃、ロンドンやベルリンでも既存の交通事業者の統合が行われていた。自動車の急速な普及により鉄道事業者の地位が低下する中で、交通事業者の再編と統合は国際的なトレンドであり、東京もまたそれに倣ったものだったからだ。