ところが1937年に日中戦争が勃発すると状況が変わる。軍需産業の隆盛により長い不況に苦しんでいた日本の商工業は上向きとなり、東京都市圏の通勤者は急激に増加したのである。1936年に1日あたり107万人だった省電(現在のJR線)利用者は1941年には214万人へ、私鉄利用者も1936年の64万人から1941年は153万人へと激増し、経営難どころか輸送力不足に苦しむようになり、交通調整の前提は大きく覆ってしまった。

 収益が上向いたことで私鉄は一元的な統合に消極的になり、郊外では東武、京成、西武、東急が周辺の私鉄・バスを合併し、それぞれヘゲモニーを握ることになった。一方、郊外からの利用者が集中する都心部では大量輸送・高速輸送が可能な地下鉄の必要性が益々高まったため、国が新設する特殊法人(交通営団)が地下鉄の整備を担い、路面電車やバスなど既存の路面交通の管理は東京市(1943年から東京都)に委ねることとなった。京急・小田急・京王を合併した東急が戦後、再分割されたことを除けば、この時、確立された体制は現代においても継続していると言えるだろう。

 国が地下の主導権を握ったのは、戦時中ならではの事情もあった。今となっては荒唐無稽(むけい)に聞こえるかもしれないが、当時、地下鉄は空襲下においても運行が可能な唯一の交通機関であるとして注目されていたからだ。実際、第1次世界大戦と第2次世界大戦で、ロンドン地下鉄はドイツ軍の空襲から市民を守る防空壕(ごう)として活用されたという事例がある。

 地下鉄の整備は戦争遂行の要となる軍需産業の足を支えるために、そして帝都の防空体制を強化するために急務であるとして、民間会社に任せるのではなく、国の関与の下、急速に進めなければならないという機運が盛り上がったのである。

 こうして帝都高速度交通営団は1941年7月4日、国と東京市、東京近郊の私鉄が出資する特殊法人として設立された。しかし、新線建設計画は戦争の激化によって頓挫し、1メートルも完成しないままに終戦を迎えたのであった。