戦後浮上した
交通営団廃止論

 終戦後、交通営団を待ち構えていたのは連合国軍総司令部(GHQ)による日本民主化政策であった。GHQは1946年3月、植民地経営に関わった国策会社や特殊銀行、各産業の統制会社、統制団体など戦時経済政策を目的として設立された機関の閉鎖を指示した。

 戦時中に設立された営団もその対象となった。営団という名の組織は交通営団の他にも住宅営団、食糧営団、交易営団、産業設備営団などが存在したが、これらはいずれも解散、改組、廃止されている。

 交通営団もまた非民主的な組織であるとして廃止論が浮上する。営団廃止論を声高に唱えたのが東京都であった。東京都は大正時代から「市営地下鉄」の実現を目指していたが、交通調整の議論の中で、地下鉄を国に取られてしまったという経緯があった。戦後東京の地下鉄整備は国主導の交通営団ではなく、地元自治体である東京都が担おうというのであった。

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 しかし東京都には地下鉄建設、運営を行った実績がないこと、前述の通り交通営団は(戦争遂行に間接的には関係していたものの)世界的な交通事業再編のトレンドに沿った交通調整の議論の中で設立された組織であるとの国と交通営団の主張が認められ、交通営団は戦後も存続することになった。東京都が地下鉄事業への参入を許されるのはそれからおよそ10年が経過した1957年のことである。

 結果的に63年続いた交通営団であるが、巡り合わせによっては設立から5年程度で消滅していた可能性もあった。その場合、現在のような東京メトロと都営地下鉄の二元体制は存在しなかっただろうが、地下鉄ネットワークは史実とは随分違った形になっていたことだろう。