ここで賢明な読者は、この例の2500億円よりももっと大きな一国単位の経済で資本家の行動を考えられることを想像できよう。そして、「資本家」が一人ではなく、多数に分割されても議論の本質に影響がないことを納得できるだろう。

 いわゆる資本主義を批判する世間の言説では、資本は常に自らの拡大を目指すので、経済のマイナス成長とは両立できないと語りたがる向きがある。しかし、そうでもないのだ。

「金持ちけんかせず」ということわざがあるくらいで、資本家は案外慎重だ。同時に貪欲でもあるけれど、採算の合わない投資はしない(はずだ)。経済全体で投資される資本の量は、その時々の投資機会の状況に応じて調整されるはずなのだ。

 付け加えると、人口減少時代にあっては資本家の人口も減少するだろう。一つの経済システムにあって資本の量は可変であり、常に増加・成長しなければならないわけではない。

 確かに、2500億円ある資金に対して1250億円分しか間尺に合う投資機会がない場合、前述の説明と異なる事態が起こることも考えられる。貪欲な資本家は、残りの1250億円についても十分な利益が上がるように、これまでの経済倫理を破る行為を試みるような「貪欲資本の横暴」に走る可能性はあり得る。

 しかし、やっても良いこととそうでないことが明らかで、それが順守されるときには、資本は一部が再投資に回り、一部は消費されることによって、マイナス成長経済とも十分倫理的に共存できるのだ。

 例えば、「やってはいけないこと」の例として、当面もうかるけれども環境を破壊する投資を考えよう。社会としては、この投資を止める方法が二つある。

 一つは、環境に与えるマイナス要素をカバーできるだけのコストをその事業の投資家に要求することであり、もう一つは資本を私有することを認めない「資本主義の禁止」だろう。

「資本主義禁止」のコスト
投資の強制は好ましくない

 さて、資本家はその所有額の合計が2500億円だが、多くの数に分かれていると仮定してみよう。