ビザンツ帝国の秘密兵器

 ビザンツ帝国(東ローマ帝国、三九五~一四五三、首都はコンスタンティノープル〔現在のイスタンブール〕)は、ローマ帝国の分裂後、その東半分を支配した。西ローマ帝国が五世紀末に滅亡すると、六世紀半ばには全地中海周辺の領域支配の回復にほぼ成功した。

 シリアのダマスクスにイスラム教のウマイヤ朝が成立すると、その創始者ムアーウィヤは、ビザンツ帝国を屈服させようと、六七四年から五年間にわたって、コンスタンティノープルを包囲攻撃した。対してビザンツ帝国は秘密兵器「ギリシア火」を登場させて激しく抵抗し、ついにウマイヤ軍を撃退した。

 ギリシア火の成分はナフサという説、硫黄や硝石、松ヤニ、アスファルトやピッチなどからなるという説などがある。もし前者ならば現在の火炎放射器やナパーム弾の仲間だ。後者ならば火薬の仲間である。

 ポンプ状の筒に入れて、筒を敵船に向けて、筒の中身に点火すると、濃い煙と激しい炎を出し、水で消すことができなかったという。十四世紀前半に火薬の実用化が始まるまでは、ビザンツ帝国のみが持つ秘密の武器として恐れられた。ギリシア火の配合は国家機密とされていたため、具体的な製法は不明のままである。

黒色火薬の発明と利用

 硝石・硫黄・木炭を混合してつくる黒色火薬は、十~十一世紀に中国で発明されたというのが定説である。唐代(六一八~九〇七)の錬金術の副産物らしい。

 南宋代の一一三五年頃に点火用・威嚇用として使用され、金王朝(一一一五~一二三四)・元王朝(一二七一~一三六八)の時代に実用化された。金王朝は、鉄製の容器に火薬をつめて点火して、投石機で敵軍に打ち込んで一二三二年に侵入してきたモンゴル軍を撃退した。モンゴル軍は手痛い経験に学んで黒色火薬を用いるようになった。

 イスラム世界を経て、十三世紀に西欧に伝わると、黒色火薬は大砲・鉄砲に使用される。鉄砲は、一三八一年、南ドイツで出現した。実用化は十五世紀後半で十六世紀には普及した。

 戦場における戦い方が変化したことにより、騎士階級の没落を促した。騎士は日頃から騎馬術や槍術、剣術を磨いていたが、火砲が戦闘で用いられるようになり、騎士の騎馬戦術は意味をなさなくなった。戦闘の主力は鉄砲で武装した歩兵集団に移っていったのだ。

 大砲は十四世紀に中国でつくられた。十五世紀にはイスラム世界を経てヨーロッパに伝わった。七百年ものあいだ、ギリシア火に守られていたビザンツ帝国のコンスタンティノープルを陥落させたのは、オスマン帝国のつくった重さ三〇〇キログラムの石を飛ばす巨大な大砲だった。

 中国では十五世紀初頭、ヨーロッパでは十六世紀中頃に、火薬が充填された炸裂する砲弾(充填された火薬を炸薬〔さくやく〕という)が用いられるようになった。

(※本原稿は『世界史は化学でできている』からの抜粋です)

左巻健男(さまき・たけお)

東京大学非常勤講師
元法政大学生命科学部環境応用化学科教授
『理科の探検(RikaTan)』編集長。専門は理科教育、科学コミュニケーション。一九四九年生まれ。千葉大学教育学部理科専攻(物理化学研究室)を卒業後、東京学芸大学大学院教育学研究科理科教育専攻(物理化学講座)を修了。中学校理科教科書(新しい科学)編集委員・執筆者。大学で教鞭を執りつつ、精力的に理科教室や講演会の講師を務める。おもな著書に、『面白くて眠れなくなる化学』(PHP)、『よくわかる元素図鑑』(田中陵二氏との共著、PHP)、『新しい高校化学の教科書』(講談社ブルーバックス)などがある。