火の発見とエネルギー革命、歴史を変えたビール・ワイン・蒸留酒、金・銀への欲望が世界をグローバル化した、石油に浮かぶ文明、ドラッグの魔力、化学兵器と核兵器…。化学は人類を大きく動かしている――。白熱のサイエンスエンターテイメント『世界史は化学でできている』は、朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞夕刊、読売新聞夕刊と書評が相次ぎ、累計8万部を突破。『Newton9月号 特集 科学名著図鑑』において、「科学の名著100冊」にも選出された。
池谷裕二氏(脳研究者、東京大学教授)「こんなに楽しい化学の本は初めてだ。スケールが大きいのにとても身近。現実的だけど神秘的。文理が融合された多面的な“化学”に魅了されっぱなしだ」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。好評連載のバックナンバーはこちらから。

【薬物の世界史】生贄にされたスペイン軍捕虜の悲劇Photo: Adobe Stock

悪魔の植物と「ペヨーテ」

 一五一九年十一月、およそ三〇〇人の部下を率いたスペイン軍の指揮者エルナン・コルテスは、アステカ帝国の首都ティノチテトランに侵入した。

 このときの様子を従軍僧が詳しく記録していた。アステカ軍に捕らえられたスペイン軍捕虜の様子を引用しておこう。

 軍神ウィツィロポチトリ(Huitzilopochtli)をたたえる太鼓や笛、ラッパ、ホラ貝など、ありとあらゆる無気味な音があたりに鳴り響いた。その音響は、大ピラミッドの頂上からで、そこには、全裸のスペイン軍捕虜が、悪魔の神像の前に引きすえられ、あるものは、頭に羽毛を飾られ、扇を手にして奇妙な踊りをさせられていた。しかし、彼らは陶然として、夢うつつのように朦朧として踊り続けるのである。踊りがすむと、石の犠牲台の上に仰向けにねかされ、石ナイフで胸が引裂かれる。ぴくぴくと脈打つ心臓がつかみ出されると、香煙けむる石壇の上に供えられた。血まみれの死体は、足げにされ、百数十段もの階段から転げ落ちた。それを待ちかまえていたインディオたちはかけより、あたかも、屠殺される牛馬のように、腕や足を切断し、顔の皮をはぎ、生首を切り落した。
(『現代のエスプリ 麻薬』七五号、至文堂)

 この従軍僧は、生贄が幸福そうに、陶然として死んでいく姿に驚き、その理由として、悪魔の植物「テオナナカトル」(神の肉)と「ペヨーテ」の服用であると記している。

「ペヨーテ」はサボテンの一種であり、アルカロイドなどの陶酔性成分メスカリンをふくんでおり、服用すると鮮やかな色彩幻覚を生ずる一方、強い吐き気などの中毒作用も強い。かつて中米の地に栄えたメソアメリカ文明では、神々を祀る手段として人身御供が広く行われていた。

 とくに穀物の神シペ・トテックなど、幾柱かの神に対する儀式の際は、石器のナイフを用いて生贄の全身の皮を剥がし取り、剥がされた皮を神官が身に纏って踊るなどの儀礼を行っていたのだ。

「テオナナカトル」はシビレタケ属の毒キノコで、アルカロイドのサイロシビンおよびサイロシンという幻覚を引き起こす成分をふくんでいる。

 この種は二〇〇以上存在し、世界中に広く自生している。これらのキノコ類の乾燥品は、一時期「マジックマッシュルーム」という名前で、インターネット上で販売されていた。現在では麻薬原料物質としてサイロシビンやサイロシンをふくむキノコ類が規制の対象となっており、輸入、輸出、栽培、譲り受け、譲り渡し、所持、施用、広告といった行為は法違反になる。

インカ帝国とコカの葉・コカイン

 現在でもコカの木の葉は、ボリビアなど南米の一部で合法的に栽培され、嗜好品として用いられている。コカインは、コカの木の葉から抽出・精製される麻薬である。インカ帝国では、国民に毎日、一定の時刻に使用することを許していたという。国民の生活が厳しく、空腹による飢餓感を抑えるためと強壮剤として用いられていたようだ。

 コカインは、現在も有効な局所麻酔薬として手術に用いられているが、服用すると幸福感や楽天感、性欲亢進などをおぼえるため、麻薬として、アメリカをはじめ世界中で濫用されている。「身体的依存性はなく、中断による禁断症状は起きない」とされているが、精神的依存性は甚だしく、濫用から生じる中毒で死を招くことも多い。

 アメリカではコカインの使用者が激増しており、その取り締まりは困難をきわめ、「麻薬戦争」といわれるほどの大きな社会問題となっている。

(※本原稿は『世界史は化学でできている』からの抜粋です)

左巻健男(さまき・たけお)

東京大学非常勤講師
元法政大学生命科学部環境応用化学科教授
『理科の探検(RikaTan)』編集長。専門は理科教育、科学コミュニケーション。一九四九年生まれ。千葉大学教育学部理科専攻(物理化学研究室)を卒業後、東京学芸大学大学院教育学研究科理科教育専攻(物理化学講座)を修了。中学校理科教科書(新しい科学)編集委員・執筆者。大学で教鞭を執りつつ、精力的に理科教室や講演会の講師を務める。おもな著書に、『面白くて眠れなくなる化学』(PHP)、『よくわかる元素図鑑』(田中陵二氏との共著、PHP)、『新しい高校化学の教科書』(講談社ブルーバックス)などがある。