古田俊之助・住友本社総理事
 今回も「ダイヤモンド」1952年3月15日号に掲載された三菱、三井、住友の三大財閥の“生き字引”による証言を紹介する。今回は住友第七代総理事である古田俊之助(1886年10月15日~1953年3月23日)による「住友憶い出すまま」と題された手記である。前回紹介した石黒俊夫は、第2次世界大戦後の連合国軍総司令部(GHQ)による財閥解体により、三菱本社の清算人を務めた人物だったが、古田は46年1月に自ら住友本社を解散し、住友最後の総理事となった男だ。

 総理事とは、創業家から経営全般を任されたいわば“大番頭”である。多くの財閥が創業一族による支配の構図にあるのに対し、住友創業家は経営には直接タッチしない。そのため当時、住友財閥において「社長」といえば創業家の家長のことを指し、傘下企業では「専務」が実質的な社長だった。

 古田は東京帝国大学採鉱冶金学科を卒業し、住友本社に入社、伸銅課に勤務する。その後、住友金属の専務を経て41年に住友本社総理事に就任した。住友は1590年に業祖、蘇我理右衛門が銅精錬と銅細工を開業したのが始まりで、別子銅山(愛媛県)の開発で大発展を遂げた。その意味で、金属畑の古田はまさに保守本流の総理事といえる。

 もっとも古田は豪腕を振るう支配者というより、まとめ役としてリーダーシップを発揮するタイプだったようだ。総理事に就任すると、専務制を廃止して傘下企業各社に社長を任命し、権限移譲を進める。本社に3人の常務理事を配置し、合議制による運営体制を固めた。さらに戦時中の44年9月には住友戦時総力会議を構築、議長を務めた。

 戦後は、前述のようにGHQの政策によって古田は公職から追放され、住友本社解体の指令を受ける。住友本社の解散式で古田は、総従業員20万人に及ぶ住友傘下の35社に対し、「住友は営利だけを目的とせず、正しい事業を進めていく、他に類のない伝統がある。住友の各事業は兄弟分であることをあくまでも失わないように精神的に提携してやって頂きたい」と述べた(住友グループ広報委員会「住友人物列伝」より)。

 その思いの通り、財閥が解体されても、住友傘下12社の社長は49年、秘密裏に「白水会」を設立し連携を深めていた。そして51年にGHQの占領が解けると、晴れて再結集を始めた。創業家を象徴としてグループ各社の社長たちによる集団指導体制は、今も「結束の住友」と称される。その伝統を途絶えさせなかったのは、最後の総理事である古田の功績が大きい。

 日本の主権回復と共に公職追放が解除されると、大阪商工会議所や関西経済連合会などから顧問に迎えられ、幾つかの企業の相談役にも就いたが、若手経営者への世代交代を重視した古田は、経営の現場には戻らず“長老”の立場で後進を見つめ、この記事から1年後、66歳で生涯を閉じている。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

薩長軍の別子銅山接収に
命懸けで戦った広瀬宰平

ダイヤモンド1952年3月15日号1952年3月15日号より

 住友の事業は今から260年前に始まっている。そして、明治維新までは、別子銅山の経営と、両替業が主な仕事であった。

 私が先年米国に行ったとき、向こうの人に、住友の歴史が古いということを話したことがあったが、米国人には自国の歴史より古いような話だからピンとこなかったらしい。

 260年も続いているような良い山ならば、なぜ、どんどん掘らないのかと逆襲された。事業を永続していくという考えで一定計画でやっているから、そうなるのだという話をしたが、実際、この別子という銅山は、昔から日本における唯一にして、最大の銅山であった。そして幕府時代から、食料補給等ある程度の便宜を受けておったらしい。