堀禄助・厚木ナイロン社長
 女性用ストッキングのトップブランドであるアツギは、創業者の堀禄助(1908年11月1日~93年6月15日)が1947年に設立した厚木編織が発祥である。高校卒業後、教師となった堀は、貧困をなくすことに使命感を抱き実業界に転身、片倉製糸紡績(現・片倉工業)で働く。そこで女性のストッキングと出合い、終戦直後の食うや食わずの状況が去れば、生活に潤いを求める時代が来ると確信し、「全ての女性の美と快適に貢献したい」という思いから、ナイロンを使ったストッキング製造で起業する。

 社名に「厚木」とあるが、本社所在地は神奈川県厚木市ではなく隣の海老名市。厚木の名は、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーが降り立った厚木基地にあやかっている。厚木基地のように、世界に知れ渡る会社にしたいという思いがあったようだ。

 当時のストッキングは、脚の後ろの縫い目(シームライン)が目立ち、動くとその縫い目がゆがんでしまうため見た目の美しさに欠けていたが、55年に堀は、縫い目がない丸編みの「シームレスストッキング」を開発し、販売を開始。まずは欧米でヒットする。堀は「あなたは見られている」とい題した宣伝映画を作成、「アメリカやヨーロッパではご婦人方の8割方はシームレス。これが明日に生きる足の流行です」と当時の女性にアピールした。終戦から10年、ファッショナブルなストッキングが日本の女性に浸透し始めたのである。

 そんな堀が、女性のオシャレに対する強い思いを、64年3月10日号の「ダイヤモンド」誌で語っている。パンティー部とレッグ部が一体となった「パンティーストッキング」をアツギが日本で初めて発売したのは68年なので、それより前の記事となる。今では一般的なパンティーストッキングだが、当時の日本で巻き起こったミニスカートブームのけん引役となった。さらに79年には丈夫でフィット感の高い世界初の「フルサポーティストッキング」を発売。日本初、世界初の技術力でその名を轟かせた。

 記事中で堀は、63年春、高校を卒業する全国の女子高生に50万足の靴下をプレゼントした話を披露している。これからオシャレ心が爆発する世代に、アツギのイメージを一番最初に植え付けておく作戦だという。「国内販売をやるときには宣伝が必要だ。これは自分でやらなければ駄目だということを痛感した。自分で生んだ商品は自分が消費者のところへ結び付けていく努力をしなければならない」と堀は語る。マッカーサーにあやかって厚木という社名を冠したように、いかに消費者に知られる存在となり、その期待に応えるかという堀のこだわりが感じられるエピソードである。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

終戦を機に考えた
女の人を美しく

1964年3月10日号1964年3月10日号より

 よく機械の好きな人が、機械の研究開発をやったとか、電気の好きな人が、電気関係の発明をやったとかいう話を聞く。その伝でいくと、僕は女が好きだということになるが、それとこれとは、あながち一緒にはならない。

 朝日新聞の「新・人国記」神奈川県の巻で、和田伝さんと私を取り上げて、片方が農業専科で、いっぼうが女専科だと書かれている。

 女のことでは、僕は大家みたいに思われているようだが、これは誠に痛しかゆしだ。

 私の総合オシャレ商品とか、女を対象としていろいろ打つ手は皆さんから時には褒められ、時には冷やかされる。私の二次製品としての繊維の研究は、誰に習ったというのではなく、そういう考えが、若いうちから固まっていた。ちょうど、機械を作る人が、家へ帰ってノコギリやヤスリをいじるのと同じように、私は、繊維二次製品というものに興味を持って、コツコツと研究を続けていた。戦争中はとにかくとして、戦前も10年間ぐらいはやった。

 終戦という声を聞いて、私は考えた。戦後は女の商品をうんと研究して、自分が戦前やり得なかった二次製品に関する基礎的な自分の経験や学問を、女のオシャレにつぎ込もう。そう決心して、スタートを切った。