『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』の著者ヤニス・バルファキス元ギリシャ財務相による連載。今回のテーマは、フェイスブック創業者のザッカーバーグ氏が入れ込む「メタバース」です。同氏は社名もメタに変更し、この新たな仮想現実空間で巨大な力を得ようとしています。ソクラテスの警告を今こそ思い起こすべきだと筆者は指摘します。
はるか昔、古代リュディア王国の話である。ギュゲスという名の羊飼いが1つの指輪を見つけた。指にはめて回転させると姿を消せる魔法の指輪である。ギュゲスは姿を隠して王宮に侵入し、王妃と姦通し、王を暗殺する。そして自らが支配者となったのである。
そこで、ソクラテスは問う。そのような指輪、あるいはそれに類した想像を絶する力を手に入れられる装置を発見したら、それを使って好き放題に振る舞い、何でも欲しいものを手に入れるのは賢明なことだろうか、と。
先日、マーク・ザッカーバーグ氏が、この先の人類を待ち受ける「デジタル・メタバース」なるいささか驚くべき構想を発表したことで、ソクラテスが出した答えに新たな命が吹き込まれている。つまり人は過剰な力、特に私たちの願望をあまりにもたくさん実現してしまうような装置を持つべきではない、という結論である。
ソクラテスは正しかったのか。賢明な人々であれば、そのような指輪を拒絶するだろうか。そもそも、拒絶すべきなのだろうか。
ソクラテス自身の弟子たちは納得しなかった。プラトンの記述によれば、弟子たちは、大半の人はギュゲスとほぼ変わることなく指輪の誘惑に負けるだろうと推察した。だがそれは、ギュゲスの指輪がさほど強力ではなく、従って恐れるほどの存在ではなかったからではあるまいか。単に姿を隠すだけの指輪よりもはるかに強力な装置が存在したならば、ソクラテスが推奨するように、人はそれを使うことを躊躇(ちゅうちょ)するのだろうか。もし そうだとすれば、それはいったい、どのような力を持つ装置なのだろうか。
その指輪によって、ギュゲスは物理的に敵を圧倒することができ、自分の欲望を妨げるいくつかの制約を取り払うことができた。だが、姿を消せることで王の護衛を殺害できたとしても、障害の全てを取り除くには程遠かった。しかし仮に、「自由の装置」とでも呼ぼうか、私たちがやりたいことを妨げる全ての制約を取り除く装置が存在すれば、どうだろうか。この「自由の装置」がひとたび起動することで何の制約も受けなくなった存在とは、いったい、どのようなものなのか。
優秀なビデオゲーム開発者が設計した宇宙の中でなら、鳥のように空を飛び、一瞬のうちに他の銀河へと飛び移り、素晴らしいアクロバットを披露することもできるだろう。
だが、それだけでは十分ではない。最も厳しい制約は「時間」である。時間の制約があるからこそ、海で泳いだり芝居を見たりしている間は読書を諦めざるを得ない。つまり、あらゆる制約を排除するには、私たちの「自由の装置」は理論上、無制限の同時体験を可能とするものであるべきだ。
しかし、それでもなお、最後に1つ、恐らく最も厄介な制約が残る。それは「他者」である。