この桶狭間の戦いにおける信長の勝因は、一つには義元側の油断であるが、もう一つ忘れてならないのは、信長の情報戦略であった。戦い後の論功行賞で、信長が一番槍の功名をあげた服部小平太や、一番首の功名をあげた毛利新介ではなく、義元に関する情報を届けてきた簗田政綱を一番手柄としたことにそのことがあらわれている。

 情報蒐集という点で注目されるのが忍者の出現である。もっとも、当時は忍者とはいわず、透波・乱波、あるいは「くさ」「かまり」などとして出てくるが、忍者のルーツといわれるのが修験山伏で、戦国武将の保護を受ける代わりに情報蒐集をし、こうした忍者によって、敵への攪乱工作なども行われていた。

 攪乱工作としてよく知られているのが離間策である。桶狭間の戦いを前にした信長にもその具体例がある。信長から義元に寝返った戸部新左衛門という侍の筆跡をまねさせ、偽の手紙を右筆に書かせ、「義元についたのは嘘で、義元が尾張に攻めこんできたときには反旗を翻します」といった内容の信長宛の手紙を、途中で拾ったようにして義元に届けている。義元はそれが謀略とは知らず、戸部新左衛門を殺しているのである。

 ところで、奇襲のパターンとなると、夜討ち朝駆けという言葉が象徴的なように、敵が油断している夜か、未明の戦いが多かった。天正十年(1582)六月二日の本能寺の変も、朝駆けの例である。なお、夜討ち朝駆けの代表例といってもよい戦いが、弘治元年(1555)十月一日の安芸厳島の戦いである。

「夜討ち朝駆け」の例_厳島の戦い1寡兵で陶軍2万に対した元就の奇襲/陶晴賢軍2万に対し、4000ほどの兵力だった毛利元就軍。弘治元年(1555)9月30日深夜、決戦の地の厳島に上陸し、日の出前に陶軍の背後から奇襲を仕掛ける。不意をつかれた陶軍は敗走を余儀なくされた(週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』から) 拡大画像表示

 この戦いは、2万の陶晴賢と、3500ないし4000といわれる毛利元就の戦いで、軍勢の数からいえば、元就に勝ち目はなかった。しかし、戦いでは元就が勝っているのである。それは、その年九月三十日の夜、元就軍が暴風雨をついて厳島に渡り、翌十月一日未明、厳島に布陣する陶軍に奇襲攻撃をかけたからである。陶側が、毛利軍の厳島への移動をつかんでいなかったことと、狭い島の中で2万の大軍が思うように動けなかったことが敗因だった。

「夜討ち朝駆け」の例_厳島の戦い2(週刊朝日ムック『歴史道別冊SPECIAL 戦国最強家臣団の真実』から) 拡大画像表示