ロバート・オーエンは、スコットランドのニューラナークの織物工場と村そのものを通して最もよく知られている人物である。初期の工場労働は過酷で、作業環境は危険に満ちていた。長時間労働が当たり前とされ、5歳や6歳の幼い子供が大人と同じ条件で働いていた。工場主は、使い捨ての従業員の福利よりも、高価な機械の手入れの方が大切だった。オーエンが傑出していたのは、会社が成功するためには、所有する機械とまったく同様に従業員たちも大切であると考えた点だ。
人生と業績
オーエンは19歳にしてマンチェスターの織物工場の共同オーナーになった。マネジメントの責務を初めて経験する彼は、従業員の仕事ぶりを観察することによって工場の仕事を学んだ。彼はこう書いている。「私は実際は何も知らなかったのだが、さまざまな部門の人間を注意深く観察した。私はあらゆることを丹念に観察することによって工場全体の秩序と規律を維持した。それは予想していたよりもはるかにうまくいった」
1799年にオーエンは、共同出資者たちとともに、義父デビッド・デールからニューラナークの綿工場を購入した。デールは進歩的な経営者として知られていたが、それでも工場内や周辺の環境は非常に悪かった。地元の救貧院との契約で5歳や6歳の児童が雇われ、1日15時間勤務が普通だった。オーエンはただちに救貧院からそれ以上児童を受け入れることをやめ、雇用の年齢制限を10歳以上にした。また、児童を殴打することも禁止した。
思想のポイント
●工場主オーエン
温情主義的な雇い主ではあったが、オーエンは何を置いてもまず実業家であった。経済的に正しいと判断できない従業員環境の改善は行なわなかった。ニューラナークの社会的改善はすべて工場の利益からまかなわれていた。このため彼は従業員に、作業習慣や工場の方式を変えることにより生産性を向上するよう要求した。
すでに身を粉にして働いていた従業員にはこれは不評だった。オーエンは、当時にしては珍しく、自分が望むような作業環境を実現するために従業員に協力させるには、彼らの信頼を得ることが必要だと悟った。彼はこれを、現代風に言うと「ボス」を説得することによって行なった。「私は従業員の中で生来の影響力や地位のうえでいちばん信望の厚い人々を探し出し、私が達成したい変革の意図を骨折って説明した」と彼は書いている。
オーエンは、1808年にアメリカがイギリス製品に対して輸出禁止措置を取った際、従業員の信頼をさらに獲得した。ほとんどの綿工場は閉鎖され大量失業が発生したが、オーエンは工場の機械を清潔で正常に機能する状態に保つだけの労働に対しても給料全額を支払い続けた。