取引照会の結果、口座の残高は1700万円にも達していた
取引資料には預金残高の記入は無かった。振込金額が30万円程度ということから判断して、口座の残高は高額ではないと思えたのであろうか、今まで一度も調査選定に引っかからなかった。取引照会を行った結果、口座の残高は1700万円にも達していた。それでも、H医師が申告している「その他の預金」の残高が6500万円もあり、簿外預金という確信は持てなかった。
しかし、上田はマルサの経験から、売上除外した口座だと確信していた。その根拠は、妻名義の口座は遠隔地に開設されており、口座には生活感が全く無かった。そして、「ATMを使った1000円の入出金」もあった。
普通に使っている口座なら一定額の入金があれば、経費の引落や口座振替など他の使用目的があるはずだが、口座には予防接種の振込以外は全く動きがなかった。しかも、口座の開設地はH医師の自宅から1時間以上も離れた学園都市だった。
学園都市が調査の「パズルを紐解くキー」となった。実際にそうであったかは確認していない。上田が気づいた学園都市と口座の「パズルのキー」は口座開設日だった。妻名義の口座は、H医師の長男が大学に入学した年の5月に開設されていた。
もっとも、この想定は長男が現役で大学に合格したことを前提としていて、しかも、長男が本当に学園都市に入学したのかどうかは調べていない。ただ、上田には長男が学園都市の大学に入学したと仮定すると、1つのパズルが解けるような気がしていた。
調査はパズルだ。上田は妻名義の口座は、長男の学校行事などのために開設した口座と推定した。不正に使われる口座の特徴として、口座の使用目的が変化するケースが挙げられる。
たとえば、口座売買屋が販売した口座などは、古い取引を調べると給与の振込口座であったものが、新しく所有者が替わって、外注費の振込口座に変化する場合がある。もっとも、サラリーマンであった人が、独立開業したなら、変化には問題が無い。
しかし、サラリーマンだった時代から10年以上も休眠状態だった口座が突然動き出し、しかも、今までと全く違う動きをした場合には疑ってかかる必要がある。実際に使っていた人が、何らかの理由で口座を売却し、口座を買った人物が架空取引に使ったケースでは、口座は以前の動きと全く違う動きをすることになる。
これをマルサでは「口座の性格が変った」と呼んでいた。口座の動きを擬人化して「性格」と表現していたものだが、とてもわかり易い表現だった。H医師の妻が、長男の学校行事などのために開設した口座を、13年経って再び使い始めたと考えると「口座の性格が変った」に当てはまっていた。