社会派ブロガー・ちきりんさんの最新刊『自分の意見で生きていこう』が、発売直後から反響を呼んでいます。特に読者の感想として目立つのが、「承認欲求と意見の関係」を説明する一節についてです。その該当部分を一部編集し公開するシリーズの第2回です。(前篇はこちら)
ファンは「キャラクター」につく
もうひとつ別の例で、考えてみましょう。みなさんも、テレビでしか見ることのない俳優さんについて、「この人はこんな人だ」というイメージをもつことがあると思います。そのときのイメージは、どのような情報に基づいて作られているでしょうか?
まずは、見た目情報ですよね。性別や年齢、目や髪の色なども含めた容姿、身長や体重などのスタイル、さらに髪型や服装などからもイメージが形成されます。
次に経歴情報。親も俳優で二世だとか、歌舞伎界の出身だとか。俳優さんであれば、映画やドラマでの役柄や演技に関する情報もたくさん手に入ります。
では、テレビで観る俳優さんについて、私たちはこういった情報から「その人がどんな人か?」をイメージしているでしょうか?
実は視聴者の多くは、俳優さんの容姿など外形情報や、ドラマでの役どころや演技といった情報よりも、よりパーソナルな情報から会ったこともない俳優さんの人格や性格を想像しています。
具体例を挙げれば、番組宣伝のために出演したトーク番組での日常生活に関するやりとりや、バラエティ番組などで披露されたとっさのリアクションなどです。
視聴者にとってはこういった(彼らの本業とは無関係な、でも、よりパーソナルな)情報のほうが、「本人の性格」を伝える情報として大きな力をもっています。
というのも、映画やドラマで表現されるのは、あくまで「役柄」の人格であって、その俳優さんの人格ではないからです。個人としての人格を理解しようと思えば、当然に、演技をしていないときの、素の本人の情報のほうが重要になります。
今はそういった素の情報が、SNSを通じて本人から提供されるようにもなりました。しかしずっと昔から、こういった情報は各種メディアを通して、積極的に視聴者に提供されていました。
高度成長期には、銀幕のスター(映画俳優)を特集するさまざまな芸能雑誌が発売され、大変な人気でしたし、その後も、週刊誌やテレビ番組(黒柳徹子さんの『徹子の部屋』などはその典型です)を通して、俳優個人の個性は、積極的に視聴者に提供されてきたのです。
なぜなら、もし俳優さんが「若くてきれいな女優さん」とか「任侠映画で迫力抜群の男優さん」としてしか表現されなかったら、たとえ映画が大ヒットしても、その俳優さん本人に心酔するコアなファンは増えないからです。
これはなにを意味しているのでしょう? 実は、ファンというのは、決して演技や音楽性といったアーティスティックな側面だけに惹かれるわけではないのです。もちろんファンの多くはそれらをすばらしいものだと評価しています。
しかし「理屈を超えたファンだという気持ち」が生まれるのは、その俳優やミュージシャンの、より個人的な魅力に惹かれるからです。ミュージシャンのコンサートだって、音楽だけでなく、演奏の間のトークがファン形成に貢献している度合いは相当に大きいのではないでしょうか。
だから、今も昔もスターたちは(というか、彼らが所属する事務所は)、スターの素顔やパーソナリティに関する情報をファンに提供してくれるのです。
結局のところ、「ファン」というのは、プロとしての卓越したパフォーマンスというより、個人としての性格や人格の魅力につくものだといえるでしょう。だからスターではない一般人の場合と同じく、内面情報が開示されないとファンはつかないのです。
そしてまた俳優ら自身も「若くてきれいな女優さん」といった認識のされ方だけでは、承認欲求を満たせません。「若くてきれいな女優さん」などいくらでもいるからです。だから本人も、「自分だけを推してくれるファン」を求めて、積極的にパーソナルな情報を提供するのです。
余談ですが、今と昔では、それら開示されるパーソナルな情報の「真実度」はかなり異なっていそうです。なぜなら昔はそういった情報も、かなり意図的に設計&整形されていたからです。
「こういうイメージで売りたい」という方針に基づいて、飾られた部屋やコーディネートされた私服が公開され、休みの日にはファンからもらったファンレターを読んで過ごしている、といった休日の様子があたかも真実のように開示されていた時代です。
本人や事務所の方針にもよりますが、今はより実態に近い個人情報が提供されていますよね。
同時に、週刊誌によって暴露される生々しい情報が、本人や事務所が伝えようとするイメージとはまったく異なる「パーソナルな情報」を視聴者に提供してしまい、ファンの間に失望や軽蔑を生んでしまうことも増えています。
いずれにしてもファンや視聴者は、その俳優、ミュージシャン、タレントさんの作品やパフォーマンスだけでなく、個人としての性格や人格に基づき、自分がその人を好きかどうかを判断しているのです。
「ちきりん」という人格
次は私自身の話です。私には本名での生活のほか、「ちきりん」というペンネームでの生活があります。このふたつの関係は、自我と承認欲求の関係を理解するのにとても役立つので、ここからは私自身の例を使ってその関係を説明してみます。
なお、「自我」にも「承認欲求」にも学問的に研究された定義が存在すると思いますが、ここではざっくりと次のような意味で使われていると理解しておいてください。
「自我」=自分は誰か、どんな人間かという自分自身の意識
「承認欲求」=他の人とは異なる個としての自分を認めてほしいという気持ち
私は過去10年以上にわたり、社会のさまざまな事柄について自分の意見をブログに書いてきました。けれどそれは、「他者や社会に影響を与えたいから」でも「人気ブロガーになって承認欲求を満たしたいから」でもありません。
本やブログを書くようになるずっと前から、私は何十年も日記を書いてきました。最初に日記をつけ始めたのは小学校5年生の頃です。
当時から私の日記は、「今日はなにを食べました」「今日はどこに行きました」といった行動の記録ではありませんでした。そうではなく「今日はこのコトについてこう考えた」とか、「今日知ったある事件について、こう感じた」という、自分の感情や思考の記録だったのです。
当然、その日記を読むのは自分だけです。誰かに見せるために書いていたのではありません。ではいったいなぜ、私は何十年も自分の気持ちや意見を言語化し続けてこられたのでしょう? そうすることのモチベーションはどこにあったのでしょう?
端的にいえばそれは「自分で自分という人間を理解したい」という欲求に基づくものでした。つまりは自分自身のため、「自我の確立のため」だったのです。
小学校の高学年、思春期を迎えた多感な時期に「自分はどういう人間なんだろう?」「自分はなんのために生きているんだろう?」といった哲学的な問いにとらわれる子どもは少なくありません。私もそのひとりでした。
その問いへの答えを手に入れること、すなわち、自分はどのような人間なのか、自分で自分という人間を理解することこそ、私が日記を書く目的だったのです。
それは一種の自己探求プロセスともいえるものです。私にとって「自分の意見をもつ」というのは、自分自身と向きあって自我を確立し、ひとりの人格として自立するために、すなわち、大人になるために不可欠な行為でした。
内面情報だけで承認される人格
そんな私の前にインターネットというツールが現れたのは、日記を書き始めてから数十年後、すっかり大人になってからのことでした。
2005年、日記を紙のノートではなくネット上のブログとして書き始めて以来、それまで誰にも読まれることのなかった「私の意見」は、広く多くの人に読まれるようになりました。これが「Chikirinの日記」というブログであり、「ちきりん」は、それを書くために使ったペンネームです。
ブログが有名になると、「ちきりん」という人格が認知され、「ちきりん」のファンだという人も増えてきました。これはとても興味深いことです。
当時の「ちきりん」は、経歴はおろか、年齢や性別さえ開示していませんでした。写真も出さず、イラストのアイコンだけで活動していたため、対談で会った人から「男性だと思っていました!」と驚かれることもあったほどです。
ほとんどの人は私と話したこともなければ、私の顔さえ見たことがありません。にもかかわらず、読者やフォロワーの間では、「ちきりんとはこんな人である」という、極めて具体的なイメージが形成されていきました。それが証拠に、SNS上では会ったこともない人から「ちきりんらしい」とか「ちきりんらしくない」などと頻繁に指摘されるのです。
多くの人がもつこのイメージこそ、私が常日頃、書籍やブログ、ツイッターやボイシー(音声配信)を通して発信している「さまざまな事柄に関する私の意見」から形成されたものです。換言すれば「ちきりん」というキャラクター、すなわち人格は、私がこれまで表明してきた、私の意見の集合体として認識されているのです。
「自分で自分をもっと理解したい」という思春期の純粋な思い(自分という人間に対する好奇心)から始まった「自分の意見を言語化する」という営みは、自分のための行為であって、誰かに認められたり、メッセージを送るための行為ではありませんでした。
私はいつも「あなたの意見は?」と聞かれたとき、それがなんであれどう答えるべきか明確にしておきたいと考えていたのです。なぜならそれこそが「私」という人間だからです。そして、その(自分のアタマで考え、自分の意見を明確化する)プロセスを通して、私は「私」になりました。
けれども、そうやって自分の意見を次々と言語化していくことで、副産物として他者にも私の人格(キャラクター)が伝わりました。それがネット上での「ちきりん」というキャラクター(人格)として「承認」されたのです。
しかも、そんなキャラクターに何十万人もの読者がつき、熱烈なファンが現れたことは、人が誰かのファンになるのに、必ずしも外形情報は必要とされていない、ということを意味しています。
これは、私だけに起こったことではありません。SNS時代が始まって以来、経歴を隠し、匿名やペンネームで発信を続けているうちに、多くのファンやフォロワーを獲得した人はいくらでもいます。彼らもまた内面情報のみによって承認されています。
もちろん、「承認」というのは必ずしも好かれることだけを指すわけではありません。「他の誰とも違う個人」として認められても、好かれる人と嫌われる人はいます。それでもネットの時代になり、「内面情報だけでも、オリジナルな個人として承認される」ということが証明されたのはとても意義深いことと思います。
というのも、将来、身体さえもたないコンピューター上のAIが自分のさまざまな意見を開示し始めれば、私たちはそれを「ひとりの人格」として認知するだろうと予想できるからです。そして、その人(?)に多くの支持者やファンが現れたとしても、けっして不思議ではありません。
私もときどき、「ちきりんに政治家になってほしい!」と言われることがありますが、AIだってその意見により人格が認められ、「ぜひ選挙に立候補してほしい!」と言われるようになるかもしれないのです。
しかしこれは、なかなか実現しないかもしれません。というのも、実はAIにとってもっとも難しいことこそ、「自分の意見をもつ」ことだと言われているからです。どれだけ情報を集めても、どれだけ知識が豊富でも、それで意見がもてるわけではありません。「自分の意見をもてる」のは、(今のところ?)人間の、とても貴重な特権なのです。