『独学大全──絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』著者の読書猿さんが「勉強が続かない」「やる気が出ない」「目標の立て方がわからない」「受験に受かりたい」「英語を学び直したい」……などなど、「具体的な悩み」に回答。今日から役立ち、一生使える方法を紹介していきます。
※質問は、著者の「マシュマロ」宛てにいただいたものを元に、加筆・修正しています。読書猿さんのマシュマロはこちら

「文章が下手だから人に見せたくない」悩みへの超納得の回答Photo: Adobe Stock

[質問]
『独学大全』を一読させていただきとても参考にさせていただきました。

 特に読書猿さんも本を読むのが苦手だった部分にはとても共感し、今後とも何かしら役にたつ学習百科事典のようにご愛玩させていただきたいと思う次第です。

 前書きはここで終わり、本題のご質問をしたいと思います。

 読書猿さんは文章を書きそれを世に出すことに何かしら抵抗はないのでしょうか?

 私は昔から世に出す事に対して自分の未熟さと羞恥心に苛まれ、とても苦しめられてるところがあり、なかなか自分の作品たるものを作れないまま時間が過ぎていくことにとても苦心している次第です。著者として様々な本を出版している読書猿さんに是非とも私がこの足かせとなる気持ちを解消すべく経験豊富な読書猿さんに何か良いがないかお聞きしたいなと思う次第であります。

 現在は昔の自分の無知、そして無学さを補うため、外山滋比古様の『思考の整理学』、そして日本語の勉強として本多勝一様の『日本語の作文技術』などを読み日々勉強していますが、どうしてもアウトプットができないため悩んでいます。

 どうか良き経験やお話を聞けたら幸いです。

下手くそで辛くても、文章を世に出す意味はあります

[読書猿の回答]
 抵抗というか苦痛は強くずっとあります。

 書くことについての苦手意識と自己評価の低さにいつも苦しめられています。

 次にお聞きになりたいのは、そんなに苦しいのなら、では何故書いているのか、書くことができるのか、だと思います。

 これについては3つの話をしたいと思います。

 ひとつは私自身について。

 私が書いているのは、ある種の義務感からです。

 私はこれまで読むことでたくさん助けられてきました。

 しかし私が読んできたものを書いた人たちの多くは故人であり、直接に恩を返すことができません。

 なので自分が受け取ったものを、いくらかでも次の人に渡すことで、自分の知的負債を減らそうとしています。

 書くことで果たすことができる義務に比べれば、下手くそで辛いことは、私が個人的に引き受ければよいことで(見えないところで泣いていればいい話で)、書かない理由にはなりません。

 もしも私が別の理由で書いていたとしたら、たとえば書くことで誰かに認められたり褒められたりすることを目的にしていたとしたら、きっと「もっとうまくなってから人に見せよう」などと考え、永遠に誰かに見せられるだけの文章を書き上げることはできなかったでしょう。

 2つ目は、あることで知り合った方について。

 70歳近くなってから大学で学んでみたい、と思った男性の方の話です。

 彼は腕の良い職人さんで、3人の息子と自分の末の弟を大学まで行かせたのですが、銀行に勤めておられた長男さんが、銀行を辞めて友人と自分で会社を作りたいと行ってきた時、大学に行きたいと思ったそうです。

 自分は中学を出てすぐ職人の道へ進んだ。今までは息子たちを大学に行かせたことは正しかったと思っていたが、考えてみれば自分が行ったことがないのに、正しい判断だったと言えるのか、と考えた、と話しておられました。

 そう思ったすぐ後に、彼は行動をはじめました。校長を退職した知り合いに教えてもらって識字教室に通い、小学1年生の漢字から学びなおしました。漢字のワークブックを1冊2週間でやり切り、それを3回繰り返して、次の学年の漢字へ進むところから始め、次に小学校の教科書をこれも書き写すことを1学年分ずつ繰り返し、中学の教科書を済ませ、新聞記事を書き写すところまで来たとき、町内会の広報係となって回覧板のお知らせをつくる役を引き受けました。曰く「人に見られて恥をかかないと、ものにならないから」と。

 彼と最後にあったのは、何年も経ってから、たまたま訪れた大学でです。彼は聴講生になっていました。

「ノートを取るのが大変だけど、なんとかやってるよ」

 3つ目は、私は最近、江戸時代のことを少し調べていて、国会図書館デジタルライブラリーの「個人配信」で読めるようになった市町村史などに翻刻された、江戸時代の人が書いた日記などを見ることがあります。

 彼らは村のため、家のため、そして自分のために書きました。

 私達になにか伝えるために書いたわけではありません。

 しかし、日記にしろ手紙にしろ、あるいはもっと断片的なメモのようなものにしろ、誰かが何かを書き残してくれたことで、何百年前の人々の営みが、例えば元禄時代の村落にも独学する人がいたことが分かります。

 この事実を前に私はこう思います。

 書き残されたものは、どのような不完全なものであれ、未来の人たちにとって過去を見ることができる小さな「窓」であり、それだけで尊いこと。

 そして誰であれ、何事か書く機会があるのであれば、誰に見せなくてもいい、それでも人は書くべきである、と。