戦後の経済成長とともに
6大企業グループが形成
敗戦時の1945年、日本の人口は約7215万人だった。それが10年後には9008万人、東京オリンピックの翌年1965年には9921万人になり、1970年に人口1億人を突破している。25年間で2800万人の消費者が生まれた。
2800万人の増加といえば、国がひとつ(たとえばオーストラリアの2020年の人口は約2600万人)できたようなものだ。
それだけの消費者が生まれたのだから、企業が成長したのも当然の成り行きである。アグレッシブに投資し、従業員を増やし、かつ猛烈に働かせた会社は規模が膨れ上がっていった。
この間、経済界では6大企業グループが次第に形成されていった。三菱、三井、住友、安田(芙蓉グループ 富士銀行系)、三和銀行系、第一勧銀系である。
企業グループのなかには商社が入り、それぞれの企業をまとめる幹事役となった。
三菱商事、三井物産、住友商事はそれぞれの財閥企業グループの中核である。
丸紅は富士銀行系の芙蓉グループに属した。芙蓉グループには日立製作所、日産自動車、大成建設といった会社があった。
日商岩井と日綿実業は三和銀行系の日新製鋼、積水化学、帝人、日本レーヨン、丸善石油などとの協業に力を入れた。
伊藤忠は住友銀行との取引が多く、つながりもあったが、住友商事ができた後からは第一勧銀系の企業集団に属した。
第一勧銀系とは古河電工、富士通など古河財閥系と川崎製鉄、川崎重工など川崎財閥系の企業を言う。
むろん、各社とも囲い込まれた企業集団の仕事だけをやっていたわけではない。
伊藤忠は自社が開発したプロジェクトのオーガナイザーを務める時は第一勧銀系の企業だけでなく、たとえば三菱グループの会社がプロジェクトに適合する実績を持っていれば、グループを超えて参加を依頼することもあった。
企業が複数参加するような大きなプロジェクトをスタートする場合、商社は各企業を取りまとめる役割を果たしたのである。