この半世紀を振り返ってみて、日本では、2001年に発行されたピーター・バーンスタイン著『リスク』(日本経済新聞社)と内部統制関連書を除いて、「リスク」をテーマにしたベストセラーはない。また、日本は地震や台風などの自然災害大国でありながら、こうした不都合な真実ならぬ「不都合なリスク」が、地価や不動産価格、さらには国や企業の事業計画に織り込まれることは極めて稀である。
高校英語に“None are so blind as those who won't see.”(見ようとしない人ほど盲目的な人はいない)という格言が出てくるが、我々は不都合なことから目を背け、現状は変わることなく今後も続いていくと勝手に信じている。ところが、ある日突然、想定外の出来事に見舞われると、カリフォルニア大学サンディエゴ校名誉教授のロジャー・ボーン氏が言う「その場しのぎ症候群」(firefighter syndrome)に陥り、その後も抜本的な問題解決には至らない。
しかし、リスクへの感度の高い組織は報われる。たとえば、2001年9月11日の世界貿易センタービルを襲った同時多発テロ事件では、1993年に同ビルの地下駐車場爆破事件の経験を忘れることなく、いつ起こるかはわからない非常時に備えていた会社があった。モルガン・スタンレーである。
避難訓練を含めた非常事態に対応するトレーニングを導入する、有事の際には業務を継続できるよう別のビルにオフィスを用意するなど、はたからすると過度の心配性に見えた。しかしおかげで、9・11では3500人の社員のほとんどが無事であった。
ハーバード・ビジネス・スクール教授のマックス・ベイザーマン氏とIMD教授のマイケル・ワトキンス氏は『予測できた危機をなぜ防げなかったのか?』(東洋経済新報社)で、「予見できる危機」(predictable surprises)を回避できないのは、「認識の不足」「優先付けの不足」「対応の不足」にあると指摘している。そして、何より決定的なのが、認識の不足、言い換えればリスクへの関心度の低さである。実際、リスクの定量化、それに準じたリスクに関する履歴、組織知としての共有など、リスク情報の基盤が整っている組織は少ない。
知り合いを芋づる式に5人をたどっていけば、地球の裏側の見知らぬ人とも実はつながっているという「6次の隔たり」という仮説が知られているが、地球はスモールワールド化している。2016年、フェイスブックがアクティブユーザー15億9000万人を対象に調査を実施したところ、平均3・57人を介すれば誰とでもつながっていることがわかったという。この6次の隔たりは人間以外にも当てはまる。すなわち、マーケティング、SNS、ウイルス感染などについて考えるうえでも応用できる。
もちろん、リスクも同様である。このことを翻せば、カオス理論の「北京で蝶が羽ばたくとニューヨークにハリケーンが起こる」という例えではないが、見知らぬ地で顕在化したリスクとけっして無関係ではなく、その影響を被っている可能性がある。
その影響が大きいか小さいかはともかく、『クライシス・マネジメント』(徳間書店)の著者で、南カリフォルニア大学クライシスマネジメントセンター所長を務めたアイアン・ミトロフ氏によれば、危機に強い企業は「予防型」で、弱い企業は「対処型」であるという。したがって、リスクを認識して備えることで、リーダーと組織のリスク感度が高まり、リスクが顕在化しても被害を最小限に食い止められる。
最近、何かが生じるといっきに拡大していく「スケールフリーネットワーク」の力がグローバル経済に強く影響を及ぼしており、何が起こるか予測できないといわれる。だからこそ、あらためてリスクについて考えてみたい。その講義を、京都大学で「保険論」の寄附講座を提供するMS&ADインシュアランスグループホールディングス会長の柄澤康喜氏にお願いした。
リスクの本質は
リスクの語源にある
編集部(以下青文字):昔の話になりますが、アメリカのある消費財メーカーの日本支社長は、リスクを漢字で「危機」と書くことから、リスクには、損失を被る可能性を意味するダウンサイドリスク、利益が発生する可能性を意味するアップサイドリスクの二面性があると指摘してきたそうです。しかし日本では、前者の意味で使われることが大半で、その割にはリスク感度は総じて低い。だからなのか、アップサイドリスク、言い換えるとリスクテーキング(虎穴に入らずんば虎児を得ず)を躊躇したり回避したりしがちです。その代わり、コスト削減などが評価されやすい。
取締役会長 会長執行役員
柄澤康喜
YASUYOSHI KARASAWA1975年、京都大学経済学部卒業後、住友海上火災保険(現三井住友海上火災保険)に入社。執行役員経営企画部長、常務、専務を経て、2010年に代表取締役社長に就任。2016年代表取締役会長、現在は常任顧問。2014年6月MS&ADインシュアランスグループホールディングス取締役社長(三井住友海上社長を兼務)を経て、2020年4月より現職。
柄澤(以下略):リスクの語源を遡ると、イタリア語の“risicare(レジカーレ)”という言葉にたどり着きます。その意味は「勇気を持って試みる」です。もう一つの語源に、アラビア語の“risq(リズク)”があり、こちらは「明日への糧」という意味です。どちらも未来に夢や展望を持って挑戦し、その過程において危険や損失を被る可能性があるというわけです。
この話に関連して、失敗学の先生から伺ったお話を紹介させてください。産業イノベーションの歴史上、こうした真の意味でのリスクを抱えていたのは内燃機関が最初だそうです。まさしく明日の糧のために勇気を持って試みた中で立ち現れたのが産業革命だったわけです。その後、蒸気機関へと発展し、鉄道が生まれ、自動車、飛行機、原子力、そして現在の自動運転、空飛ぶ自動車へと連なっていきました。
いずれのイノベーションも、リスクを理解し、制御しながら平準化するというプロセスを経て、生まれてきたものです。自動運転や空飛ぶ自動車も、法整備を含め、幾多のプロセスを通じていずれ実装化されていくことでしょう。その際、事故が起きるから止めようという話にはなることはないでしょう。
自動車事故による死亡者数は、2021年で2636人と、5年連続で最少を更新しているそうです。ただし高度成長期には、毎年1万人以上の人が命を落としていました。だからといって「自動車はけしからん、製造を中止しよう」という議論にはならなかった。それは、自動車の普及によって生活の利便性や経済の生産性が飛躍的に向上したことに加えて、交通事故の原因の大半は、自動車そのものというよりも、車の点検整備の不十分や運転ミスなど、ヒューマンエラーであることによります。
なお、1960年に道路交通法が整備される以前は、飲酒運転に罰則はありませんでした。飛行機も同様です。飛行機がなければ、今日のようなグローバリゼーションはありえなかったでしょう。