そこでこの行き詰まりを打開するために、東海道新幹線開業の翌年1965年に山陽新幹線新大阪~岡山間の建設が認可された。これまでに例のない高速運転を実現した東海道新幹線であったが、基本的には実証済みの既存技術の組み合わせで成り立っていた。しかし高速走行で発生するさまざまな問題が明らかになり、建設と並行して技術開発が進められた。

 東海道新幹線の基準を策定してから約5年後に動き出した山陽新幹線計画では、その間の技術発展を反映した設計とした。東海道新幹線では工期と用地の都合上、以降の新幹線より急なカーブがあり、将来の速度向上の障壁となることが予想されていた。

 国鉄の技術陣は東海道新幹線に満足せず、技術発達がなければ大衆化が進む航空機にいずれは負けてしまうとの危機感を抱いていた。そのため山陽新幹線は急曲線、急勾配を排し、将来の時速250キロ以上の運転が可能な設計で建設することになった。

 この基準は続いて建設された東北、上越新幹線や、現在も建設の進む整備新幹線の規格に引き継がれている。この結果、山陽新幹線は1997年に日本で初めての時速300キロ運転を開始しており、新幹線高速化の先駆けとなった。

運賃の相次ぐ値上げで
東京~福岡間のシェアは低下

 しかし、結論から言えば山陽新幹線は中長距離輸送を鉄道が独占していた時代の最後を飾る路線であった。山陽新幹線全通以前の1970年、東京~博多間の移動は岡山から在来線山陽本線特急列車に乗り換えて11時間弱、在来線寝台特急列車「あさかぜ」を利用した場合は約17時間だったが、国土交通省の旅客地域流動調査に基づく東京都~福岡県間の鉄道シェアは約49%だった。

 1975年に山陽新幹線が全通すると、東京~博多間の所要時間は6時間56分まで短縮され、鉄道シェアは56%まで増加した。国鉄はさらなる打ち手として東海道・山陽新幹線に夜行列車を走らせる構想を掲げていた。