アートが美や身体からかけ離れたものになっている
ちょっと前の話になりますが、愛知県で行なわれた国際美術展「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」をめぐっては、数多くの抗議や批判が集まり、日本中で大きな議論が巻き起こりました。
美術作品の政治性や、政治性を持つ作品を展示するべきかどうかに対しては、様々な考え方があると思います。
しかし、一連の騒動を見ていて私が一つ思ったのは、そこでは「美」の問題が置き去りにされているのではないか、ということでした。
作品を擁護する人も批判する人も、作品が美しいかどうかを、あまり俎上に載せてはいなかったと思います。しかし私は、作品に対する美の気配なくして、作品を判断することはできないと思うのです。
元々は気配や触感など様々な感覚へと開かれていた芸術作品も、頭で文脈を理解する対象として、コンセプトやメッセージ性だけが問題にされてしまいがちです。それは芸術作品に対して、あまりにも狭く、バランスを失った短期的な捉え方ではないでしょうか。
そしてコンセプトを重視する現代アートは投機の対象となり、歯止めのきかない資本主義を推進してもきました。世界のマーケットでは繰り返しバブルが生み出され、崩壊し、また新しいバブルが生み出される。アートが美や身体からかけ離れたものになる動きは、情報社会でいっそう加速しているとさえ言えるでしょう。