報道陣を徹底してシャットアウト

 マルコス元大統領の死後、1991年に当時のアキノ政権が一家の祖国帰還を許可するや否や、マルコス一族は権力回復に向けて着々と動きだした。ボンボン氏は1992年に一家の故郷である北イロコス州の選挙区から下院議員に初当選、その6年後には同州知事に返り咲き、さらに2010年には上院議員に初当選、全国区で復権をアピールした。その後、前回2016年の副大統領選に出馬した際は、今回打ち破ったレニー・ロブレドに惜敗した。

 これだけの華麗な経歴にもかかわらず、フィリピン専門家は「ボンボン氏に政治家として目立った実績はない」と口を揃える。今回の大統領選では「我々は共にあり、再び上昇する」とのスローガンのもと、サラ・ドゥテルテ氏とペアで「ユニティ(団結)」を強調した。ボンボン氏は地元で建設を推進した風力発電施設をロゴとして採用したが、特に目を引く独自政策や主張はほとんど見当たらず、対抗馬のレニー氏と比べても本人の公式サイトのメッセージは抽象的だった。

 去年、大統領選出馬待望論があったサラ氏が副大統領候補に回り、ボンボン氏とタッグを組むと、ボンボン氏本人の支持率は急上昇した。ドゥテルテ路線の継承を主要候補の中で唯一明言していた点が大きかった。ただ、ドゥテルテ大統領はボンボン氏を「甘やかされて育った息子」で「弱いリーダー」とし、積極的に評価することはなかった。

 この6年間、ドゥテルテ政権は「麻薬戦争」を始動させ、その超法規的処刑で数千人を殺害したことで国際的な論争となった。それでも国内では、治安回復に向けた効果的な対策として受け止められ、警察による汚職の撲滅やインフラ建設の推進とともに、確かな変化を感じ取った中間・底辺層に評価され、政権は80%前後の支持率を維持した。一方、南シナ海への進出を強める中国に弱腰姿勢を貫いたことは物議を醸した。

 ドゥテルテ人気の背景について、「日刊まにら新聞」で編集長を務めたジャーナリストの石山永一郎氏は「一定の水準にある国にとっては人権や言論の自由が重要になるが、フィリピンの一般の人々の求めるものは法と秩序である」と解説する。

 ボンボン氏は選挙期間中、安全運転を徹底し、報道メディアの取材には応じず、討論会にも欠席を続けた。

 フィリピン外国人特派員協会(FOCAP)は、世界報道自由デーの5月3日に発表した声明で、ボンボン陣営が報道陣を事実上排除していることを批判し、問い合わせやコメント要請に満足に応じていないと指摘。「ボンボン候補に近づこうとしたジャーナリストが乱暴されたケースもある」と懸念を示した。