1989(平成元)年の参議院選挙は戦後政治の流れを変えた大きな転換点だった。自民党が惨敗して「衆参ねじれ国会」が生まれたからだ。
4年後の93年衆議院選挙で、その政治状況が自民党の初めての野党転落につながった。当時の首相は宇野宗佑。参院選の公示は7月5日だった。ところが、宇野を巡る女性問題が拡大。宇野は街頭演説すらできないまま首相官邸に引き揚げざるを得なかった。
その後も宇野は街頭に立つことなく、先進7カ国(G7)首脳会議(アルシュ・サミット)に出席するため仏パリへたった。そんな宇野にとって唯一の選挙運動がサミット出席と言ってよかった。
このサミットはフランス革命からちょうど200年、7月14日の革命記念日に合わせて日程が組まれていた。しかも6月4日に中国で起きた天安門事件の直後というタイミングでもあった。
このため議題の中心は中国に対する経済制裁問題。中国の人権問題も絡んで米欧6カ国が厳しい制裁の発動を主張した。これに対して宇野は、中国の「国際的孤立の回避」を強く訴えた。そのことは2020年に公開された外交文書でも明らかにされている。外相から首相になった宇野は水を得た魚のようにサミットで日本の立場を訴えた。
しかし、7月18日に帰国した宇野は再び“閉門蟄居”の身に舞い戻った。投開票日前日の22日の首相動静記事に宇野が置かれた厳しい状況が浮かび上がる。
「【午前】新聞などを読んで過ごす。【午後】自民党本部中庭に移り政談演説会」
結局、選挙期間中に宇野が街頭に立つことはなく、わずかに大阪府と京都府、地元の滋賀県を訪れて個人演説会などで3回演説しただけだった。宇野は投開票日の翌日、「明鏡止水」の言葉を残してトップリーダーの座を自ら降りた。