2015年にウクライナの首都キーウ(キエフ)を訪れた。街の中心にあるのが独立広場(マイダン)で、2004年のオレンジ革命や2014年のユーロマイダン革命(尊厳の革命)の舞台になった。広場の中央にあるのが独立記念塔で、頂にはセイヨウカンボクの枝を掲げる女神ベレヒニア像が立つ。
この記念塔から周囲を見回してどこかものさびしい印象を受けたが、やがてその理由に気づいた。ここには、ヨーロッパの中心都市の広場に必ずある建物“王宮”がないのだ。
9世紀後半、「ルーシ」と称するバイキング(ヴァリャーグ人)の王がキーウ・ルーシ公国を建国し、10世紀末にヴォロディーミル(ロシア語名ウラジミール)がバルト海、黒海、アゾフ海、ヴォルガ川、カルパチア山脈にまたがる広大な地域を支配、ビザンツ帝国(東ローマ)の正教(東方正教会)を国教にした。だがモンゴルによって征服されて以来、キーウは新たな王を迎えることがなかった。
ティモシー・スナイダーの『赤い大公 ハプスブルク家と東欧の20世紀』(慶応義塾大学出版会)は、そんなウクライナの王になろうとしたハプスブルク家の若者ヴィリーの物語だ。
参考:ヴィリーは、なぜ「赤い大公」と呼ばれるようになったのか?[前編]ハプスブルク家と神聖ローマ帝国
「日没することなき」といわれた世界帝国を築いたハプスブルク家の19世紀の苦闘
1895年、いずれもハプスブルク家の血をひくカール・シュテファンとトスカーナの王女マリア・テレジアとのあいだに、6人きょうだいの末子(2人の兄と3人の姉)としてヴィルヘルム(ヴィリー)は生まれた。
神聖ローマ皇帝とスペイン国王を兼ねたカール5世の時代(1500~1558年)には「日没することなき」といわれた世界帝国を築き上げたハプスブルク家だが、フランス革命とナポレオン戦争を経て、19世紀末にはドイツの南端(オーストリア)とハンガリーを拠点に、チェコ、スロヴァキア、ポーランド、ウクライナ、スロヴェニア、クロアチア、セルビアなどのさまざま民族を抱える寄木細工のような多民族国家になっていた。帝国の人口の4分の1ずつがドイツ人とハンガリー人(マジャール人)で、ほかの半分はスラブ系だった。
1848年、パリで始まった二月革命はたちまちドイツ、オーストリアに飛び火し、言論の自由や民族の自立を求める三月革命が起きた。その混乱がようやくおさまった同年12月、ハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフが18歳でオーストリア帝国皇帝に即位する。ヨーゼフの治世は第一次世界大戦中の1916年に86歳で没するまで68年に及ぶが、それは勃興する民族主義をどのように抑え込み、調停するかの苦闘の連続だった。
1859年のソルフェリーノの戦いでイタリアは統一され、北イタリアのハプスブルク領が失われた。シュテファンの妻はトスカーナ王女だったが、彼女が継ぐべき領地も失われた。
1866年、ケーニヒグレーツの戦いでビスマルク率いるプロイセン軍に完敗を喫したことで、オーストリア帝国はドイツ統一からも排除された。翌67年にはマジャール人を主とするハンガリーの反中央政府運動が激化し、ヨーゼフは対外政策(外交)と防衛、財政問題を除く全面的な自治権を認めることを余儀なくされた。このアウグスライヒ(和協)によってオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立した(ただしハンガリーは「王国」)。
しかしそうなると、当然のことながら、帝国内の他の民族が同様の権利を要求するのは避けられない。その急先鋒がボヘミアのチェコ人だったが、この要求を容易に受け入れられない事情があった。ボヘミアではチェコ人とドイツ人の民族抗争が激化していたのだ。
「ハプスブルクという“傘”の下に民族がより集まって、ロシアとドイツの脅威から身を守る」
プラハ出身のカフカやリルケがドイツ語で創作したように、ボヘミアではドイツ人が「支配民族」で、長らく公用語もドイツ語とされていた。だが民族主義の高揚で多数派のチェコ人が政治の主導権を握るようになると、「ボヘミアとモラヴィアのすべての官吏はドイツ語とチェコ語を理解できなければならない」という言語令が発布された。
チェコ人の知識層はドイツ語とのバイリンガルだが、ドイツ人がみなチェコ語を解するわけではない。これは一見、平等な条件のように見えても、ドイツ人を狙い撃ちしたものであるのは明らかだった。
神聖ローマ帝国はドイツ人の国で、現在のスイスに出自をもつハプスブルク家も民族的にはドイツ人だった。そのドイツ人を「差別」する法令がオーストリア帝国内で布告されたことは蜂の巣をつついたような大騒ぎになり、ヨーゼフはやむなく首相を罷免し、言語令を撤回せざるを得なかった。しかしそうなるとチェコ人たちが承知せず、帝国議会で議事の妨害をはかるようになり、帝国は末期症状に陥った。
それでもなお、第一次世界大戦まで「帝国」が続いたのは、ひとつはフランツ・ヨーゼフの「人間力」で、帝国政府に不満のある民衆や知識人たちも、ヨーゼフには敬愛の念を抱いており、皇帝の座から引きずり下ろそうとは思わなかった。もうひとつはより現実的な理由で、南のオスマン帝国の勢力が衰えたことで、東のロシア帝国の脅威が増し、西には統一によって強大なドイツ帝国が生まれた。この2つの帝国にはさまれている以上、たとえ民族が自立しても、弱小の国民国家が生き延びられるとは思えなかった。
このようにしてハンガリーでもボヘミアでも、もっとも強硬な民族主義者ですら、「ハプスブルクという“傘”の下に民族がより集まって、ロシアとドイツの脅威から身を守るほかに選択肢はない」と考えていた。これが杞憂ではないことは、東欧のその後の歴史が証明している。