いじめ防止のためのあだ名禁止
人間関係に有用なあだ名

 あだ名が禁止になるのは、それがいじめの原因になる可能性があるからだ。冒頭の筆者のエピソードのように、あだ名はともすれば「呼んでいる側だけ楽しくて、呼ばれている側はストレス」となるリスクをはらんでいる。

 これを便宜的に「悪いあだ名」と呼ぶことにするが、悪いあだ名は成人が集まる職場ですらいとも簡単に発生しうる。いわんや小学校をや、だ。悪いあだ名は当然いじめに発展する可能性がある。また、あだ名それ自体がすでにいじめであったりする。
 
 だからそんな危険な“あだ名”はそもそもなくしてしまおう…というのが“あだ名禁止派”の考えだ。あだ名禁止によって実際回避できた悲劇も、あまたあるだろうと推測する。いじめの過程であだ名が生まれるのではなく、あだ名が先にあってそこからいじめが生まれるケースは容易に想定されるのだ。
 
 一方“あだ名禁止・否定派”は「『いじめをなくすためにあだ名を禁止する』という考え方が浅い」と思っている。

 筆者はどちらかというとこちら寄りだ。そもそもいじめが起きる種々の環境要因がまずいのであって、あだ名を禁止にして上澄みだけ取り繕って達成感を覚えることこそが危険である…というのが言い分だ。
 
 あだ名の是非を問う際、並行してあだ名のメリットについて議論される。“悪いあだ名”に対して“良いあだ名”は、コミュニケーションの中で自然に生まれるものであり、コミュニケーション、ひいては人間関係を円滑に、かつさらに強固にする効能を持つ。
 
 これがあだ名の主なメリットだが、「あだ名に頼らず、“さん付け”のみであっても素晴らしい人間関係は得られるはず」という意見もある。

 筆者はあだ名が持つ情緒も好きなので、それが失われるかと思うとどうしても惜しく思われる。だが、「さん付けのみであっても別に大丈夫」という主張にも、たしかに正当性が感じられる。