京セラ創業者であり「経営の神様」と評される稲盛和夫氏が8月24日に死去した。稲盛氏の経営の引き際は潔く見えたが、京セラの山口悟郎会長によれば、つい最近まで経営への影響力が厳然として存在し「本当の意味で稲盛の影響力がなくなったのはほんの5年ほど前のことだ」という。特集『京都企業の血脈』(全18回)の#6では、現経営者が稲盛氏とのエピソードを交えながら、 “脱創業者シフト”の難しさを赤裸々に語る。(ダイヤモンド編集部 村井令二)
京セラ会長が肌で知る
「カリスマ創業者」の真の姿
――稲盛和夫さんに最後に会われたのはいつ頃ですか。
稲盛とは、ごく最近まで報告のためにご自宅で話をしていました。名誉会長の稲盛への経営報告が京セラ会長である私の役割でした。報告といっても細かい話ではなく、決算発表をこのようにしますという程度。もちろん「駄目だ」と言われることはなかったです。
そう言われても経営陣はやるんですけどね。最近では業績の事後報告も多く、新型コロナウイルスで社員が何人休んでいるとか、ウクライナ情勢でロシアのビジネスへの影響がどうだとか、おそらくあの人が気になっているであろうことをこちらが考えて報告していました。
――山口会長は1978年に京セラに入社していますが、59年創業の京セラで、社長だった頃の稲盛さんの印象を覚えていますか。
僕は稲盛と二回り、きっかり24歳違うんです。僕が22歳で会社に入りましたから稲盛は46歳。もうエネルギーが有り余っている感じでした。ただし、僕は新入社員で東京で営業を担当していたので、「稲盛社長」との直接の関わりなどはもちろんなく、当時は遠くからただすごい人だなと思っていただけでした。
――当時の京セラは「稲盛教」といわれるくらい社員が猛烈に働いたハードワークのカルチャーがあったと聞きます。
僕が入社した78年の京セラの売上高は600億円くらいだったのが、5年後の83年には2500億円ほどになったので、それはもうめちゃめちゃ忙しかった。僕は半導体部品の営業で、とにかくいくら作っても全く足りない。そういう時期だったので、徹夜で打ち合わせをしたり、不良品の選別をしたり、しょっちゅう朝まで仕事をしていました。
そんな中で稲盛はとにかくハードワークの人でした。79~81年ごろだったかな。僕がいた東京の営業所に稲盛がやって来た。そこで営業所の幹部5人くらいを集めて大声で叱り飛ばしていました。小さな営業所だったので幹部がコテンパンにやられている様子が丸見えだったのでよく覚えています。そのうちお昼になって稲盛に丼が届いたら、それをガツガツ頬ばりながら、ガーガー怒鳴り続けている。叱られている幹部の人たちは稲盛が帰った後で昼を食べに行けるけど、稲盛は、そこでしか食事する時間がなかったんでしょうね。それはもうすごい迫力で、自分が叱られているわけではないのに本当に怖かった。
稲盛氏が京セラの経営のかじ取りをしていた時代を肌で知る山口会長。新入社員として「稲盛社長」を知り、自身が社長になった際には稲盛氏から直接厳しい指導を受け、京セラの現経営者として稲盛氏の晩年まで寄り添った。次ページでは、その山口氏が偉大過ぎる創業者を抱える故に経験した、京セラのトップとしての悩みを赤裸々に語った。