02年7月に幕を開けたヨーロッパへの挑戦は、3年間プレーしたイタリアのレッジーナ、4年間プレーして数々の伝説を打ち立てたスコットランドのセルティックをへて、スペインのエスパニョールへ移籍した1年目の終盤だった10年2月に、古巣マリノスへの復帰とともに幕を閉じた。

 ワールドカップの舞台に立つ最初のチャンスだった02年の日韓共催大会は、選出が有力視されながら開幕直前で落選した。本大会で「10番」を背負ったのがサプライズ招集されたFW中山雅史だった点も、フィリップ・トルシエ監督の構想にぎりぎりまで残っていた点をうかがわせる。

 ジーコ監督から「10番」を託され続け、満を持して臨んだ06年のドイツ大会は開幕直前に患った体調不良が最後まで響いて精彩を欠き、日本もグループリーグで敗退した。

 代表での集大成として位置づけていた10年の南アフリカ大会では、マリノス復帰後になかなかコンディションが上向かなかった俊輔に対して、岡田武史監督が開幕直前になってレギュラー剥奪を決断。本田圭佑を中心とした日本が決勝トーナメントへ進出し、日本中を熱狂させたなかで、途中出場の1試合だけにとどまった俊輔は大会終了後に代表引退を表明した。

 それでも紡がれてきたサッカー人生に、俊輔は笑顔で及第点を与えた。一瞬たりとも手を抜かなかった挑戦の軌跡が、現役を終えたばかりの俊輔に胸を張らせたのだ。

「何が足りなかったのか、といったものは反省したいけど、あまり突き詰めていってもあれなので。この筋力と体でよく頑張った、というのがあるからね。どのようにしてうまくやってきたのかとか、それらを今後、次の選手たちに生かせないものかとか思っている。目標を立てるのもそうだけど、立てた後の過程が大事だからね。だから、よくもがいたんじゃないかな」

 J1の磐田から19年7月に加入した横浜FCで、あえて自身初のJ2でのプレーを選んだ後も、俊輔は最大のテーマを「もがく」にすえていた。こんな言葉を当時残している。

「磐田で試合に出られなくなって、俺はこんなものじゃない、このまま終わりたくないという葛藤があって、それでカテゴリーをJ2に下げてでも、と思ったらここでも試合に出られない。でも、ちょっとでもモチベーションを落としたら絶対にダメ。ずっと張り詰めさせてさえいれば、必ずどこかで引っかかる。絶対にあきらめずに、粘って、もがいていかないと」