「人間中心に考える」というデザインの視点をブレーキ開発に
私はCDOという立場でこのプロジェクトを主導したが、既存技術を生かして事業創造・組織変革につなげていく、というやり方そのものにはデザイナーが関与する必然性は低い。というより、技術力のある企業なら、今すぐにでも同様の取り組みは可能だろう。「デザイン」が真の力を発揮するのはここから先だ。コア技術にデザインを深く融合させると、エンジニアリングの方向性が研ぎ澄まされ、「技術転用による市場拡大」を超えた「新しい価値の創出」が可能になるのである。
エンジニアリングとデザインの大きな違いは、意識の向かう先が「モノ」か「人」か、という点にある。エンジニアがモノの機能や生産性の最大化を目指す一方、デザイナーは人間の動的感性(フィーリング)の価値の最大化を目指す。ブレーキでいえば、エンジニアリング目線だけなら「きちんと止まる」の実現がゴールだが、デザイン目線を加えれば「ユーザーの心地よさ」まで考えなくてはならない。「人間中心に考える」というデザイン視点の導入によって、「操作感」や「使用感」までエンジニアリングの射程に入ってくるのである。
長年にわたって、機能や生産性を高めるエンジニアリングを徹底的に尽くしてきた唐沢製作所のブレーキライニングにも、デザイン視点で見ると、まだまだ進化の余地があった。例えば、摩擦材の骨に相当する「基材」の素材は、同社では長く見直されてこなかった。「止まる」という機能は十分に満たしており、見直す必要がなかったからだ。これをデザイン視点で見ることで、スチールを素材とした従来の基材は「ガツンと止まる」という粗野なフィーリングにつながっていたことに気付いた。
では、未来のモビリティーのブレーキにふさわしいのは、どんなフィーリングだろうか? 私たちは「ブレーキ装置の未来」について議論を重ねた。小型モビリティーが使われる場面は? ブレーキ装置のないモビリティーはあり得るか? ブレーキの安全性が高まれば、社会はどう良くなるだろうか?
こうした議論を経て、「握力が弱い人も楽に操作できる」「ブレーキ音が静か」「ブレーキダストが少ない」といった、「より心地よいフィーリング」を持つブレーキライニングの開発に取り組むこととなった。過去の膨大な技術資料を分析し、さまざまな新素材を試し、膨大な組み合わせを検証し……。設計に3年の歳月をかけた結果、人にも環境にも優しい「100%樹脂系素材(スチールフリー)のブレーキライニング」が完成したのだ。試行錯誤の過程で膨大な種類の新素材を扱う必要があったため、コンピューター上で試作と検証を行うデジタルプロトタイピング(デザインのアイデアをデジタルツールによってビジュアル的に試作すること)の仕組みを構築できたことも、今後につながる大きな成果となった。
開発で得られた成果は積極的に社外に発信し、現在、自動車メーカーやAGV(無人搬送車)メーカーといった、これまで接点のなかったモビリティー関連企業からの開発受託案件が増えている。また、摩擦材の共同研究の試みも始まっている。