日本一の高利貸し「バブルの王様」が米国で乗せられて払った3億円の授業料写真はイメージです Photo:PIXTA

森下安道は終戦から間もなく、愛知県から東京へ上り、一代で「街金融の帝王」となった。戦後のカオスから高度経済成長期、さらにバブル景気とその後の失われた30年を生きてきた。日本社会の表裏を知り尽くした「バブルの王様」が、米国でゴルフ場開発に乗り出した際、払った手痛い授業料とは。(ノンフィクション作家 森 功)
※本稿は森功『バブルの王様 森下安道 日本を操った地下金融』(小学館)から一部を抜粋し再編集したものです。

米国進出を決めたファックス

 日本一の高利貸しとして成り上がり、不動産開発に力を入れ始めた森下安道は、国内のビジネスだけでは満足できなかった。やがてその目は米国に向かい、自らのビジネスネットワークを張り巡らせていく。

 紙きれに3000万円と書けば、ひとしく同じ額の金券に早変わりする。有体(ありてい)にいえば、ゴルフ会員権の正体はそれだ。森下のビジネスにとっては、錬金のいち手段でしかない。商業手形であろうが、ゴルフ会員権であろうが、そこにさしたる違いはなかった。その金券は、どちらも紙くずになる恐れをはらむ。森下は手形やゴルフ会員権の危うさを最も知っていた。その独特の貨殖の才で、金券を巧みに操ることができたといえる。

 ゴルフ場を始めた森下は1980年代後半、海外にも不動産ビジネスを広げようとした。アメリカやヨーロッパのゴルフ場がほしくなったようだ。しかし、日本と欧米ではかなり勝手が違った。

 アイチグループの海外進出は、急激に進んだ円高という経済事情がそれを手伝っている。周知のように、85年9月のプラザ合意が、円高の端緒(たんしょ)を開いた。世界の為替安定という名の下、日本政府は日米貿易不均衡とドル高の是正を突きつけられる。

 結果、80年代前半まで1ドル250円前後だった日本の円が、あっという間に200円を割り、急騰していった。それが、のちにバブルと名付けられた狂乱景気を呼び込んだ。森下が海外に触手を伸ばし始めた時期は、そんなバブル前夜にあたる。

 きっかけはアイチ本社に届いた一通の英文ファックスだった。86年5月のことだ。すでに国内10件以上のゴルフ場オーナーとなっていたアイチの評判は、海外にも届いていた。国内外を問わず、ほうぼうから投資案件の売り込みがあった。

〈メスキートカントリークラブに出資しませんか。総額175万ドルで、米国のゴルフ場オーナーになれます!!〉

 ファックスは何の変哲もない投資の宣伝広告といえた。日本円にすれば、投資額は1ドル175円換算で3億625万円也。

 80年代の国内のゴルフ場には会員権ブームが到来し、開発が盛んになっていった。いきおいゴルフ場の買収額も高騰した。自前で開発するにしろ、既存のゴルフ場を買い取るにしろ、価格は1ホールあたり1億円が相場とされた。18ホールなら20億円弱、27ホールのゴルフ場なら30億円近くかかった。

 それに比べると、ファックスにあるメスキートCCはすこぶる安い。むろん森下が76年に2億円で買収した新潟の上越国際CCよりやや高いが、その後の相場からするとまさしく破格といえた。森下が宣伝ファックスに飛びついたのも無理はない。

「アメリカはそんなに安いのか。常務、とりあえずそのゴルフ場を見て来てくれ」

 森下はアイチの常務だった義兄の佐藤信人にそう命じ、取り急ぎ佐藤が渡米した。