新事業を成功に導いた“ペイ・フォワード”の精神

 多くの人に助けられながら、粋粋ボックスはなんとか出荷できる態勢ができていった。当初、漁師たちは自分たちがこんなに苦労しているのだから、商品さえ作ればどんどん売れて、おカネが入ってくると思い込んでいたようだ。だが、ビジネスはそれほど甘いものではない。

 これから必要なのは営業ということになるが、漁師たちには頼れない。私がすべてやるしかなかった。

 粋粋ボックスのようなサービスはこれまで日本には存在しなかった。つまり、その存在自体が知られていない。当たり前だが、作っただけではどこからも注文が来ない。これまで周囲との軋轢もあったため、2013年に出荷態勢が整い、販売実績が出るまではあえて露出を控えていた面もあった。

 テレビで大々的に宣伝すれば知名度も上がるだろうが、私たちにはそんな資金の余裕などまったくない。(中略)

 当然、営業資金は限られる。まずは1軒1軒、顧客を開拓していくしか方法はなかった。とはいえ、なんの伝手もない小娘がいきなり飲食店に押しかけて「魚屋です。新鮮な魚がありますから、買ってもらえませんか」と言っても相手にされるはずもない。

 なにか突破口になるきっかけはないものか。

 さして多くもない私の過去の人脈を振り返ったとき、ふと頭に浮かんだ人物がいた。萩でコンサルタントを始めたころに出会った、大阪にいる伊荻州一(いおぎしゅういち)さんという会社経営者である。かつて会食の場で紹介され、名刺交換をしていた方だ。

 このとき、「普段はなにをしているのか」と尋ねられ、まだ始まる前の「船団丸」の構想を話した。伊荻さんは大手家電メーカー・パナソニックに勤務していたころの話をしてくれた。

「当時の上司から『君は昇進できない』と叱られたんや。ほんでな、わし、『ほなら僕は社長になります!』って言うて独立したんよ。そやから、わしより賢いお嬢さんなら大丈夫や! なんかあったら、わしに連絡してきぃや。ほんまに面白いことを考えるな、賢いわ!」

 その言葉を真に受け、一度会って名刺交換しただけの人に、飲食店経営者を紹介してほしいとお願いするのが、いかに常識外れのことか。今ならそう考えるだろう。そのときの私にはそんなことを考える余裕はなかった。背に腹は代えられない。どれだけ細い糸でも、つながっていると信じた。断られたらそれで仕方ない。とにかく当たって砕けろで、電話を掛けた。