処理仕事「SSK」から卒業した
一大ターニングポイント

【藤原和博】「人の無能化と組織の無能化」が同時進行するおそろしい会社員の未来を悟った衝撃的な本星 友啓(Tomohiro Hoshi)
スタンフォード大学・オンラインハイスクール校長
経営者、教育者、論理学者
1977年生まれ。スタンフォード大学哲学博士。東京大学文学部思想文化学科哲学専修課程卒業。教育テクノロジーとオンライン教育の世界的リーダーとして活躍。コロナ禍でリモート化が急務の世界の教育界で、のべ50ヵ国・2万人以上の教育者を支援。スタンフォード大学のリーダーの一員として、同大学のオンライン化も牽引した。スタンフォード大学哲学部で博士号取得後、講師を経て同大学内にオンラインハイスクールを立ち上げるプロジェクトに参加。オンラインにもかかわらず、同校を近年全米トップ10の常連に、2020年には全米の大学進学校1位にまで押し上げる。世界30ヵ国、全米48州から900人の天才児たちを集め、世界屈指の大学から選りすぐりの学術・教育のエキスパートが100人体制でサポート。設立15年目。反転授業を取り入れ、世界トップのクオリティ教育を実現させたことで、アメリカのみならず世界の教育界で大きな注目を集める。本書が初の著書
著者公式サイト】(最新情報やブログを配信中)

星:リクルートから教育の道にキャリアを転換された「ターニングポイント」はどのように起きたのでしょうか?

藤原:一つの大きな転機としては、病気にかかったことです。

 朝から晩まで仕事をしながら、休日には世界中の文化遺産を見て回るなど、仕事にも遊びにも全力集中でしたので楽しかったのですが、30歳のときにメニエール病という三半規管がダメージを受けてめまいがする病気になりました。目の前の視界がぐるっと回ってしまう疾患です。

 根本的な原因はストレスだと思います。

 年々昇進していくに連れ、接待(Settai)・査定(Satei)・会議(Kaigi)といった処理仕事(SSK)が増えていき、本当にやりたいクリエイティブな仕事と、実際の処理仕事との間で股裂き状態になっていました。

 そこで、当時は営業の東京統括部長という肩書でしたが、病をきっかけに違うセクションへの異動を願い出て、「メディアデザインセンター」というマルチメディア(今でいうインターネット関連)を扱うセクションを新たにつくってもらいました。

星:病をきっかけに、社内での役割や立ち位置も変化していったわけですね。

 当時、その部門は、どのくらいの規模だったのでしょう?

藤原:最初は、いろいろなセクションではみ出ている7人ぐらいを集めた小さい組織でした。

 さらに、今では出版社KADOKAWAのブランドの1つになっている「メディアファクトリー」も創業しました。そういう小さな組織の中で、自分をクリエイティブな領域にシフトさせたんです。

 そんな30代から、会社員ではなく「会社内個人」、企業人ではなく「企業内個人」という意識がかなり強くなっていきました。

星:なるほど。そのほかにも、藤原さんの転機となった出来事はありますか?

藤原:32歳で結婚、翌年に自分の子どもが生まれことや、その前後で起きたリクルート事件・ダイエーショックですね。

 そして一番大きかったのは、リクルート創業者の江副浩正氏(1936〜2013)が引退したことですね。

 そのときに、「サラリーマンとしてこのまま40代もやるのか? いや、それはないな」と思ってしまったんです。

 そして、37歳のときに「40代はテーマを追って、自分の仕事をやりたい。会社を辞めて、海外に移住します」と会社に告げましたが、当時の社⻑が私の最初の上司で、「藤原がそこまで言うなら」と、社内の留学制度を特別に30代の後半で使わせてもらえることになりました。

星:その年代で社内留学されるのは、かなり稀なケースだったのですね。

藤原:はい、通常はみんな20代後半くらいに留学制度を使っていましたので。

 留学先については、これからの日本は成⻑社会から成熟社会に移行することが見えていたので、その先輩格であるイギリスとフランスを選びましたが、実際に留学することで、日本の教育のシステムは、このままだと、ろくな成熟社会を迎えられないということを肌で体感しました。

 そして、そのまま会社に戻ってしまうと、また処理仕事(SSK)まみれになることがわかっていたので、いったん会社をやめ、1人のプロとして「会社と対等の契約を結ぶ」という選択をしました。リクルートにも正式な制度として、初代フェローになることを認めてもらえたんです。

 その後40代は、自分の中でテーマを絞り、

「介護中心とした在宅医療」
「コンピュータを活用した教育」
「組織の壁を超えた個人と個人の新しい関係の構築と住宅問題」

 の3分野に関する会社を立てたりつぶしたりする中で、47歳のときに「東京都の義務教育初の⺠間校⻑」という道が開かれ、教育改革の道にチャレンジしてみることになったんです。