大きな物語に成長した世界宗教にできること
西:人が死に向かうには「物語」が必要だと、たらればさんとも話していたのですが、仏教にはあの世には極楽と地獄があるという物語、「浄土思想」がありますよね。仏教界では、どんな扱いになっているのですか。
吉村:インドで生まれた仏教は、歴史的にヒンドゥー教の影響を大きく受けながら発展し、中国、日本へと入ってきました。つまり、日本へと伝わるまでには、土着の信仰を含むさまざまな要素を取り込んできていた。
浅生:理屈だけではいかないってことですよね。
吉村:物語の力は本当に強いですからね。実際に救われる人がいるのなら、それは正しいものだと認識したいと思うのが人間の性です。そうしたものを理論づけしていくうちに経典が膨らみ、宗教的な営みとなってきたのだと思います。
市原:そのように時代と土地を超え、各地の物語を吸収しながら発展していった仏教という壮大な物語に携わる方たちに比べると、現場で1対1の物語を紡いでいる私たちは分が悪いなあ、と感じます。
というのも、医者は患者さんが亡くなるたびに、医者自身の経験と、その患者さんの個人的なものがより合わさって紡がれる物語に、少しずつダメージを受けるからです。自分の中にある「理想の死」や「死とはこういうものだ」というイメージが、目の前の患者さんの具体的な死と一致すればいいのですが、実際にはそうもいかない。
実にいろんな死があることを目の当たりにしてしまうと、死の物語を人前で語ることなんてできないという気持ちに追い込まれてしまいます。
1人の物語に寄り添う
市原:毎年このセッションにいらっしゃるお坊さまも、皆さん「死のことは我々にもわからない」とおっしゃいますよね。以前、昇洋さんとTwitterSpacesでお話しさせていただいたとき、「禅、あるいは仏教というOSをインストールしているんだ」とおっしゃっていたのが印象的でした。
医者にも何らかのOSがインストールされていると思うのですが、仏教ほどまだ開いていないところがあるのかな。
吉村:つい先日、娘さんを亡くされたご家族の法事で、お盆に近かったこともあって「お盆には戻ってこられますよ」といった一般的なお話をしたんです。するとお父さんが「極楽とか地獄というのは、本当にあるんですか」と聞いてこられた。
仏教ではそれらがあることを前提に話をしていますが、私には確証がないので、「そういう物語があります」という提示の仕方しか実はできません。でも大事なのはその先、「そういう物語を聞いてどう思いますか?」のほうだと思っていて。
市原:相手のリアクションをご覧になっているんですね。
吉村:そういう質問をされるということは、お父さん自身が信じてないわけです。そして信じていないことによって生じる苦しみや、やるせなさを抱えていらっしゃる。そこをフォローするのが僧侶の役目だと思うんですよね。
浅生:今ここにいる人の気持ちにどう対処するか。
吉村:臨床心理士でもある私がすべきなのは、その言葉の意味より、その方がその言葉を選ぶに到った意図を探ることです。そう考えていくと、この方は何らかのつらさを抱えているからこそ、死後の世界を説くのが仕事の僧侶に敢えて「死後の世界はあるのか」と質問してきたことに気づきます。ちょっと一言言ってやりたい、そうでないと気持ちが収まらない、ということなのでしょう。
そこで、「そういうお気持ちになっているんですね」と声をかけながら本人の気持ちを収束させていく。葬祭儀礼や法事を通して「死」という現象と向き合うプロとしてフォローができるよう、常に意識しています。