スクールカースト下位に位置づけられることの多いコミュ力の低い者、協調性に欠ける人たちは、しばしば若い世代の間では「コミュ障」や「アスペ」などと呼ばれ、揶揄されます。口にする方からすれば軽い表現かもしれませんが、コミュ力の低い個人に対するうっすらとした差別的な発想が透けて見えます。
状況を複雑にしているのは、そうした個人が、単に排除されるばかりではないことです。
「発達障害バブル」の背景にある
「承認(つながり)依存」
最近の小説や漫画では、あきらかにASD的なキャラ設定の主人公が著しく増えました。人気作品「デスノート」に登場する「L」という探偵が典型ですが、知能は異常に高いけれども社会性に乏しく、さまざまな「こだわり」を持つクセの強いキャラが、多くのエンタテインメント作品の主要人物として登場するようになりました。
そうした設定のテンプレートとして、アスペルガー人気はきわめて高いのです。著名人の中にもアスペルガーをカミングアウトする人が多く、アスペ的なキャラによって受けているとしか思えない人が少なからず存在します。
つまりASDは、日常世界においては協調性に欠けた困った存在として排除される傾向にあるけれども、フィクションや非日常においてはキャラとして人気がある、というねじれた受けとめられ方をしているのです。
こうした「発達障害バブル」の背景にも「承認依存」や「キャラ文化」があると考えています。どういうことでしょうか。「承認依存」文化のもとでは、コミュニケーションスキルやつながりのありようについての自明性の水位が上昇します。つまり、かつてよりも要求される水準が上がっているのです。もしかつての私が現代の若者集団の中にいたら、「コミュ障」ないし「アスペ」のレッテルを貼られていた可能性が高い。これは謙遜などではなく、私自身は私にそんなレッテルを貼る社会の方がおかしいと確信していますが、それはそれとして、かなり生きづらい経験をしたであろうとは想像してしまいます。
要求される水準が上昇した結果、人々の「異常」に対する感受性も上がり、ちょっとした外れ値を見つけては「異常者」のレッテルを貼りやすくなっていると考えられます。つまり、昔であれば「空気が読めず、ときどき変な挙動をする、孤立しがちな変わり者」で済んだものが、今は「あの人はアスペだから」ということになってしまう。こうした風潮は明らかに間違っていますし、この風潮の背景に「承認(つながり)依存」が確実に存在することを、私は確信しています。