伊藤博文、今なら利益誘導?
駅ナカ商売が「既得権益」だった時代
現在のJR桜木町駅は、1872(明治5)年に日本初の鉄道が開業した当時の終点、初代の横浜駅でもある。つまり川村屋が洋食の食堂として構内営業を開始したのは、まだこの駅が「横浜駅」だった1900(明治33)年のことだ。
そして、駅構内での営業許可は、初代内閣総理大臣・伊藤博文との人脈から、料亭「富貴楼」(現在の横浜市中区尾上町にあった)を経営していた斎藤たけ(芸名・富貴楼お倉)の養女・渡井つる名義で下りたものだという。
そもそもコンビニエンスストアがなく、駅構内に飲食店もあまりない時代、鉄道駅の構内営業許可には、やや大げさに捉えれば既得権益があったともいえる。料亭の富貴楼も、伊藤博文をはじめ大久保利通、大隈重信、井上馨などの政治家や鉄道省関係者が出入りする、いわば「料亭政治」の源流ともいえる場所だ。
となると川村屋も、当時の政府や鉄道省ときわめて近い関係者の間で営業許可が下りたことになり、現在なら「忖度(そんたく)」「利益誘導」とやゆされる可能性も否定できない。
とはいえこの時代、他にも、何かの見返りで構内営業許可が出された例は多々ある。薩摩藩士・小松帯刀の功績を考慮し、鉄道大臣の計らいで子孫に許可されたという品川駅の常盤軒や、鉄道の必要性に共感し、駅の用地買収に協力した見返りだったという岡山駅・三好野本店などだ。
また、斎藤たけは「客が手をたたく回数で提供する料理の味付けを変える」など、辣腕(らつわん)ぶりを示すエピソードが多い人物だ。貴賓の利用も多い横浜駅での西洋食堂経営という大役を、伊藤博文から任せられるだけの手腕が、間違いなくあったのだろう。
さて、現在の横浜駅が1915(大正4)年に開業したことで、駅名は「桜木町駅」に変わった。戦時中には食堂に焼夷弾が飛び込んできたこともあったし、1951(昭和26)年に発生した「桜木町事故」(駅構内で車両火災、106人が死亡)の際には、店を休んで救護活動にいそしむこともあったという。その後1969年には駅そば店を開店し、89年の横浜博開催・駅移転時に、そば店専業になった。
川村屋はまさに、桜木町駅と共に歴史を重ねてきたわけだが、店内に「閉店のお知らせ」が出たのが2023年2月のこと。ていねいな文章でつづられたその内容は、「後継者が見つからない中、今後安定した店舗運営を継続して行くことは困難と判断された為」と店主名で記してある。突然の事態に、SNS上では惜しむ声があふれかえった。駅そばビジネスの現状は、そうとう厳しいのだろうか? また、今後はどうなっていくのだろうか?