栗山英樹監督は黒子のプロデューサー的に一歩引いて、準備段階ではどの選手も一目置くメジャーリーガー、ダルビッシュ有投手にチームのまとめ役を任せた。さらに驚いたのは、戦力的な大黒柱でシリーズ全体の目玉的な存在である大谷選手が合流してからは、ダルビッシュ選手は大谷選手を立ててチームの結束を図ったことだ。

 先輩後輩や役職によるのではなく、真に実力のある者がチームを引っ張るマネジメントスタイルは、AI(人工知能)の導入など新技術の台頭が著しい近年のビジネスにあって、大いに参考になったのではないか。

「野球大国」ではなくて、何大国?
日本は何を目指せばいいか

 あれだけ素晴らしい日本代表チームを見せられると、「日本は野球大国だ」と言いたがる人が出てきそうだ。明らかに大げさだとは分かっていながらも、「○○大国」と言ってみる気分は悪くない。

 率直に言って、第2次世界大戦の敗戦の影響で、日本人は自国を「強国」だと主張することを、物理的にも、精神的にも禁じられる抑圧を受けている。前の戦争は、つくづく負け方が下手だったと先輩世代に文句の一つも言いたくなるが、過ぎたことを嘆いても仕方がない。「野球」のような無難なものでなら、大国を自称することが許される。

 この意味では、かつて頻繁に使われた「経済大国」という言葉とポジションはぎりぎりセーフの最大限だった。しかし、この言葉は、中国に国内総生産(GDP)で追い抜かれてから使用頻度が減り、韓国に1人当たりGDPで追い抜かれようかという現状に至っては忘れたい言葉になったかもしれない。そうはいっても、これを自称できていた数十年間、日本人にとって自信の源の一つだった。

「政治は三流かもしれないが、経済は一流だ」などと自虐交じりに評論するとき、「経済では勝っている(あるいは、勝ちつつある)」という意識は日本人の誇りだった。近年では労働時間が減って、野生動物というよりは家畜のように大人しい日本人だが、「エコノミック・アニマル」などと言われても一方に妙に嬉しい気持ちがあったものだ。

 しかし、今や胸を張って「○○大国」と自称できる、「誇れる○○」が日本に見当たらない。これでは元気が出ないし、国民経済全体の運営戦略としても利益獲得の目玉商品が乏しい。

 では、日本は何の大国を目指すといいのか。ここで、「大国」を自称できる状態とは、グロスのスケールで最大・最高ではなくとも、日本の突出した特徴として他国よりも優れた何らかの形質を国ないし国民が持つことだとしよう。

 何がいいだろうか?