情熱主義という文化は
若者にプレッシャーを与えている
米ミシガン大学社会学部准教授。機械工学部の客員准教授も兼務。2011年、カリフォルニア大学サンディエゴ校で社会学の博士号を取得。専門は格差と階層、ジェンダー、文化的社会学、科学とテクノロジー、仕事・経済・組織など。単著に『The Trouble with Passion: How Searching for Fulfillment at Work Fosters Inequality』、共著に『Misconceiving Merit: Paradoxes of Excellence and Devotion in Academic Science and Engineering』(いずれも未邦訳)。Photo by Moni Valentini
セック 私も当初は、学生が米労働市場の事情に疎いのではと思っていましたが、疎いどころか、米国の労働市場や雇用の不安定さを熟知していることがわかりました。だからこそ、情熱を重視するのです。
つまり、一見、より安定した仕事に見えても、(「解雇自由の国」である)米国では、いつ何時お払い箱になるかわかりません。情熱を犠牲にしてお金や雇用の安定を基に仕事を選んでも、いつ失業するかわからないという不安定さは同じです。それならば、「自分が愛せる仕事を探そう」というのが彼らの考え方なのです。
――米国の若者は、「仕事に情熱を感じなければいけない」と思い詰めるあまり、情熱を持てないと落ち込み、精神を病む人さえいると聞きます。
セック そのとおりです。情熱主義という文化は若者にプレッシャーを与えているようなものです。「大きくなったら、何をしたい?」と子供たちに尋ねると、「消防士になりたい」といった答えが返ってきます。「仕事で何をしたいか」という意識と「人間としてのアイデンティティー」が深く結び付いているのです。
こうした文化の下では、情熱を感じる仕事がまだ見つからない新卒の若者は、大きなストレスを感じてしまいます。その一方で、家族を養うためにお金を重視する人や、趣味などを楽しむために長時間労働を避けたい人は、「情熱を追い求める若者に比べ、仕事を真剣に考えていない」と批判されているように感じるでしょう。
また、情熱を追い求める若者は、雇用主から「情熱に満ちたパフォーマンス」を求められ、一生懸命働くはずだ、と期待されるかもしれません。つまり、「労働力の搾取」です。
――情熱主義がはらむリスクを詳しく教えてください。
セック まず、仕事に情熱を追い求めることができるかどうかは、その人の社会経済的背景にかかっているという点を指摘したいと思います。情熱の追求がもたらす「コスト」を背負えるかどうかは、境遇によって違うのです。
情熱を追い求めると経済的安定が犠牲になりやすく、何カ月も、いや何年間も労働市場から離れ、これという仕事を探し続けることになりかねません。それができるのは、非常に高額な米国の大学の学費や家賃の負担など、家族から財政的支援を受けられる人だけです。
「情熱探し」には、セーフティーネットや家族の支援という(成功への)「バネ」が必要なのです。また、家族が就活に役立つようなコネや知識を持っているという、「文化的・社会的資本」も有利に働きます。
問題は、そうしたものを持っていない低所得層出身の若者も、「情熱を追い求めろ」と言われることです。セーフティーネットも成功への「バネ」もない若者が情熱を追い求めると、医療保険などの社会保障もない、不安定で低報酬の仕事に行き着く可能性が高くなります。そして、もちろん、「情熱」とはほど遠い仕事です。
情熱探しの奨励は、「社会的・経済的格差を再生産する」リスクをはらんでいるのです。
――情熱主義のリスクをうまくかわす力は、等しく配分されていないわけですね。
セック 情熱のおもむくままに行動し、まともな収入を得られる安定した仕事にたどり着くことは、「ぜいたく」以外の何ものでもありません。
だからといって、低所得層出身の若者に「情熱を追うな」と諭すことが解決策だとは思いません。そんなことをしたら、格差の永続化につながってしまいます。恵まれない家庭の若者も、情熱を追い求めながら十分な収入を得られる仕事に就けるようにすべきです。
それには、まず、学生ローンの負担を軽くすることです。そして、低所得層出身の若者が、就活や就職に必要なスキルといった、富裕層出身者が家庭から得られる文化的・社会的資本を大学で身に付けられるようにすべきです。
――先ほど話に出た「労働力の搾取」について詳しく教えてください。