荒畑寒村出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
 荒畑寒村(1887年8月14日~1981年3月6日)は、日本の社会主義運動の先駆者である。1903年、横須賀海軍造船廠で職工見習だったときに、日露戦争に非戦論を唱えた幸徳秋水、堺利彦らに感化される。幸徳、堺が非戦の主張を貫くために発刊した社会主義新聞「平民新聞」に参加し、社会主義運動に身を投じた。

 08年、アナーキストの大杉栄らと「無政府共産」「社会革命」と書かれた赤旗を掲げて屋外行進をしようとして警官隊と衝突し、検挙され懲役刑を受ける(赤旗事件)。入獄中に妻の管野スガ(須賀子)が幸徳と不倫関係に陥ったことから幸徳とは疎遠になったため、幸徳ら24人が明治天皇暗殺を企てたとの容疑で死刑判決を受けた10年の大逆事件(幸徳秋水事件)に関わることはなかったが、常に日本の社会主義運動の先頭に立ち続けた人物である。戦後は日本社会党中央執行委員となり、46年衆議院議員に選出されたが、48年に意見対立して脱党している。そして50年代以降は一線を退き文筆活動に専念した。

 その荒畑が、「ダイヤモンド」1967年9月25日号の特集「日本経済史への証言」に談話記事を寄せている。テーマは日本の労働組合運動史だ。第1次世界大戦以後、大正デモクラシーで雨後のたけのこのように生まれた労働組合だが、争議のたびに生まれてはつぶれ、つぶれては生まれるを繰り返し、片やイデオロギー論争に明け暮れて、集合と離散を繰り返した。初期の組合運動の指導者の一人であり、明治・大正・昭和を通じた社会主義運動史を語れる生き証人として、荒畑は最適任者といえる。

 実はそもそも「ダイヤモンド」と荒畑は深い関係があった。というのも、ダイヤモンド社の創業者である石山賢吉とは大正時代からジャーナリスト仲間として非常に親しくしており、戦前からダイヤモンド社で校閲や記者への文章指導をしていた。戦後は50年から70年代初頭まで、ダイヤモンド社編集局顧問に就任していた。社内に個室も用意されていたという。ちなみに50年代のダイヤモンド社では、満州国の国務院総務長官として実質上の行政トップを任じられ、第2次世界大戦中は東条英機首相の側近を務めた星野直樹も顧問を務めている(後に副会長、会長を歴任)。政府と特権資本家を糾弾した社会主義者と、政財界の大物にしてA級戦犯にもなった人物が同じ屋根の下にいたというのは実に面白い光景だ。(敬称略)(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)

組合運動弾圧の時代
大逆事件で24人に死刑宣告

「ダイヤモンド」1967年9月25日号1967年9月25日号より

 日清戦争の直後、明治30(1897)年に、「労働組合期成会」というものが設立された。これが、日本の近代的な、労働組合運動の嚆矢(こうし)です。

 その時分の労働組合は、親方の組合、熟練工の組合にすぎなかった。一つの笑い話に残っているが組合員の細君達が、組合の会合を非常に嫌がった。会合が終わるとばくちをやったり、吉原などに行く、そういう例が多かったからです。

 それでも、相当の進歩を遂げたが明治33(1900)年に「治安警察法」が制定された。これはフランス大革命のあとのシャプリエ法とか、あるいは18世紀末の、英国の団結禁止法と同じような性質のもので、労働者の団結とか、ストライキを禁止するのが目的だったのです。そのために、未発達な運動が阻害されて、明治33年を頂点としてその後、ずっと衰微におもむき結局、明治34~35(01~02)年ごろには、事実上滅びてしまった。

 ところが、明治40(07)年の2月に、足尾銅山に坑夫の大暴動が起こった。それ以後、日本全国に何十となく起こり、6月には別子銅山の大暴動となり、軍隊が出て鎮圧に当たった。

 こうした暴動は組合運動があるから起こったのではない。組合運動がないために起こっている。つまり、労働組合運動があって、団体としての行動、規約、訓練を持ち、団体としての要求を出すというような機会がないから、一時に火熱が爆発するというように暴動が起こったのです。

 その後、明治43(10)年に、大逆事件が起こり、幸徳秋水一派のアナーキストが、天皇暗殺の陰謀を企てた。こんにち、これは政府のフレームアップ(捏造)だということが、だいたいにおいて明らかにされている。とにかく、この事件で24人全員死刑の宣告を受け、このうち半分が無期懲役になり、12人が殺されてしまった。

 大逆事件をきっかけとしてその後、社会主義運動は手も足も出ない状態になってしまった。

 事件の直後に、ある理学士が、『昆虫社会』という本を書いたらすぐ発売禁止になった。

 このような科学的な著書が、どうして発売禁止になったのか、不思議に思って調べたら、社会という字が悪かったんだというような笑い話みたいなことが起こるほどに、非常に弾圧されたのです。だから、自由な思想の発表などということは、もちろんできなかった。

 その後、労働組合運動が再び起こったのは、大正3(14)年の第1次世界大戦が勃発してからです。